難波宮
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難波宮(なにわのみや)は、弥生時代後期〜古墳時代、応神天皇の行宮で難波大隈宮。大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居、難波高津宮。以来、飛鳥時代〜奈良時代、再び難波(現在の大阪市)に都が戻り法円坂周辺に造られた古代の宮殿。645年〜793年まで約150年間の皇都。天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された。また、難波宮から日本という国号、元号、の使用が始まったとされ孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした。大王と呼称された倭国の首長である仁徳天皇の難波高津宮も難波宮が造られた周辺にあったとされる説が最も有力な説とみなされている。跡地は国の史跡に指定されている(指定名称は「難波宮跡 附 法円坂遺跡」)。
注釈
- ^ 古代の寺院や宮殿の大棟の両端に置かれた鴟尾が飾られていた。復元すると高さ1.5メートルほど。文様は珠文や葡萄唐草文。
出典
- ^ a b 岡田由佳子 (2015年12月8日). “54年ぶり、難波宮の屋根瓦が初公開”. Lmaga.jp (京阪神エルマガジン社) 2022年8月28日閲覧。
- ^ 『大阪の史跡を訪ねて(1)原始・古代篇』(ナンバー出版)[要ページ番号]
- ^ “後期難波宮:独特文様の屋根瓦54年ぶり再発掘 6日公開”. 毎日新聞. (2015年12月1日). オリジナルの2015年12月22日時点におけるアーカイブ。 2022年8月28日閲覧。
- ^ a b c d “後期難波宮の屋根瓦を一般公開=54年ぶりに再発掘-大阪市〔地域〕”. 時事通信. (2015年12月9日). オリジナルの2015年12月12日時点におけるアーカイブ。 2022年8月28日閲覧。
- ^ 李陽浩「前期・後期難波宮の造営期間と造営日数についての一考察」『共同研究成果報告書』、大阪歴史博物館、34頁、2013年 。2022年8月28日閲覧。
- ^ 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1271-3)[要ページ番号]
- ^ 今井邦彦 (2015年12月2日). “難波宮の瓦、半世紀ぶりに再発掘 6日に一般公開へ”. 朝日新聞. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2022年8月28日閲覧。
- ^ a b “阪神高速の大規模更新 13号東大阪線 法円坂付近”. 阪神高速道路. 2019年6月29日閲覧。
- ^ “難波宮に奈良期の役所…建物跡4棟、初出土”. 読売新聞. (2016年12月1日). オリジナルの2016年12月2日時点におけるアーカイブ。 20228-28閲覧。
- ^ 難波宮から役所跡みつかる[リンク切れ]
- ^ “難波宮跡 附 法円坂遺跡”. 国指定文化財等データベース. 文化庁. 2022年8月28日閲覧。
- ^ “大阪府教育委員会告示第2号” (PDF). 国立国会図書館デジタルコレクション. 大阪府公報第3580号. 国立国会図書館. p. 1 (2012年3月15日). 2022年8月28日閲覧。
- ^ a b c “大阪市” (PDF). 大阪府内指定等文化財一覧表. 大阪府. p. 11. 2022年8月28日閲覧。
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