長谷川晶
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来歴
1925年3月3日北海道旭川にて、国鉄の車掌区に勤務していた父馨と母キヨとの次男として生まれる。稚内の小学校を卒業し、北海道庁立旭川中学校(5年制)を卒業後、北海道大学理学部臨教数学課へ進学。子供の頃から絵や漫画を描くのが得意であった。油絵を始めたのは大学に入ってからで、当時札幌在住の菊地精二に師事した。太平洋戦争末期、徴兵で旭川師団に入隊したが、まもなく終戦。卒業後、1946年21歳で函館高等女学校の数学教師として就職した。そこで田辺三重松と出会い師事した。この頃より全道展、行動展に積極的に応募し、1950年代後半から1960年代前半にかけて頭角を現し、国内の美術展で大賞を受賞し、また、サンパウロビエンナーレ等の国際展にも招待出品されるに至った。
1959年に13年続けた教員生活にピリオドを打ち、1960年35歳の時、妻子と共に神奈川県鎌倉へ転居した。その後、神奈川県相模原市、東京都世田谷区と転居し、1982年(昭和57年)に、長年アトリエとしていた使用していた町田市小野路町の小屋を、自宅兼アトリエに建替えて転居し、終の棲家となった。
画業を続ける傍ら、1962年より1970年まで武蔵野美術大学にて非常勤講師としてデッサンを教えたり、1970年からはイラストレーターを養成する講談社フェーマススクールズのインストラクターとなり、その後、同社が全国展開する「こども美術学園」の本部指導責任者となり、幼児美術教育の指導者の育成や講演に長年携わった。また、1972年より、浜松の医師の油絵同好会であった「ぬたる会」の指導も始め、晩年病で倒れるまで長年続けた。
本業の画業については、銀座の村松画廊や井上画廊等にて個展やグループ展を、1999年7月まで不定期に数多く開催し、自己表現としての作品を発表した。1999年12月に2度目の脳梗塞を患いリハビリ生活となり、回復することなく2005年6月11日永眠した。
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