長谷川晶 作風

長谷川晶

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 23:20 UTC 版)

作風

当初は田辺三重松に師事していたこともあり具象画も描いていたが、評価を得たのは抽象作品で、を基調とした作品も多く、また、板に塗った絵具やペンキの一部にガソリンをかけ、火を点けて焼き焦がすなどの手法で制作した作品を発表している。

ある時期には、元来機械いじりが好きであったこともあり、床に置いた12畳大の舞台のような板から、無数の銅パイプが上下にアトランダムに動く作品を発表したり、同じく床に置いた真っ赤な舞台から積木のような小木片が不規則に立ったり倒れたりする作品を制作し、奇妙な世界を演出したりした。その後も、作品の一部が動く作品や、平面に工業廃材を取り付け着色した作品や、廃材そのもののバランスや美を表現するオブジェなどの作品を発表している。

また、シルクスクリーンについても本格的に取り組んでおり、他の抽象作品と相通じるコンセプトをデザインした作品を残している。

また、一方で、若いころ修行した油絵による風景画も得意とし、桜島や昭和新山等の雄大な風景画や、「ぬたる会」による海外スケッチ旅行に同行し、いくつかの海外の風景の作品を残している。本人としては本業とは捉えていなかったものの、独特のタッチと色彩の世界があり、具象画である風景画の愛好者もいる。

エピソード

  • 中学生時代はマンガを描くのが得意で、授業中マンガを描いていて教師に見つかり、職員室に呼ばれ座らされて叱られ、また、マンガにして皆を笑わせていた。
  • 軍隊時代に、よほど絵を描きたかったのか、上官の許可をもらい、絵の道具を送ってほしいと実家に連絡してきた。
  • 函館時代、友人の画家・平川勇と、オンボロのダットサンで、当時としては珍しい自動車での日本一周旅行を実施し、帰還時には多くの報道陣が集まった。
  • 相模原に住んでいた40歳頃、知人と電動の自動靴磨き機の開発を企て、アトリエにて試作に没頭したが、事業化には至らず失敗した。
  • 美大のデッサン講師の職があり、二つ返事で受けてきたが、本人は正式にデッサンを習ったことがなく、自宅に石膏胸像を急遽購入。短期間猛特訓の結果、完璧に技術を習得し、学生に教えることとなった。
  • 町田市小野路町に最初に建てたアトリエは、空いている時間を利用し自らの手で材木や廃材を調達し、建築したものであった。

受賞歴

  • 全道美術協会賞(第12回全道展)
  • 行動美術賞(第13回行動展)
  • ウィリアムフリュー賞(1958年カーネギー国際美術展)



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