近藤茂 (技術者)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 13:38 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動逓信省技師として電気局技術課長心得などを務め、退官後は実業界に転じて電力会社にかかわり大同電力常務取締役、昭和電力副社長に就任した。福井県出身。
逓信省時代
福井県福井市出身[1]。1874年(明治7年)12月15日、士族近藤寅之助の長男として生まれる[2]。1896年(明治29年)7月第一高等学校第二部工科を卒業し[3]、次いで1899年(明治32年)7月東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業した[4]。同期に日本電気会長を務めた秋山武三郎らがいる[1]。
卒業後は逓信省に入り、電気事業の監督にあたる[1]。1901年(明治34年)、電気試験所第1回海外留学生として電気事業研究のためイギリスへ留学、翌年からはアメリカに転学して1904年(明治37年)11月帰国[1][2]。帰国後は電気試験所に勤務した[1]。1902年逓信技師に任ぜられ、1905年(明治38年)2月には逓信技師となる[2]。1908年(明治41年)9月、電気単本位調査委員を命ぜられて「電気単本位国際会議」に日本の代表委員として派遣され、イギリスのロンドンへと渡る[1]。会議終了後は欧米の電気事業を視察して翌1909年(明治42年)7月に帰国した[1]。帰国後まもなく電気試験所第一部長に昇進する[1]。
1910年(明治43年)、日本電気工芸委員会が設置されるに及び委員となり、後に副委員長として電気機械・器具や電線の規格制定、用語選定、規格統一に携わる[1]。1914年(大正2年)11月、電気局技術課長心得および電気事業主任技術者資格検定委員長を命ぜられる[5]。電気局では周波数の統一や故障発生時の事業者救済方法を研究・実施し、法規改廃にあたって手続きの簡略化を図るなどの活動を行った[1]。これらの電気事業に対する功績を理由に1915年(大正4年)2月に工学博士の学位を授与された[1]。
1919年(大正8年)5月時点では、逓信省電気局技術課長心得・電気事業主任技術者資格検定委員長のほか逓信省臨時調査局電気部第二課長心得、大蔵省臨時建築課技師(課長丹羽鋤彦)、臨時議院建築局技師、特許局技師を務める[6]。同年10月27日付で逓信技師その他を依願免官となった[7]。退官後の11月21日付で従四位(勲四等)に叙された[8]。
大同電力時代
1919年11月、丹羽鋤彦とともに10月に設立されたばかりの日本水力株式会社に入り常務取締役に就任した[9]。同社は山本条太郎(福井県出身)を社長とする電力会社で、北陸地方を中心に電源開発を行い関西地方へと電力を供給する構想の下設立されていた。翌1920年(大正9年)1月、技師とともに機械・資材の購入のため渡米する[9]。ところが同年春の戦後恐慌により金融難に陥り日本水力の事業は停滞してしまう。やがて福澤桃介率いる大阪送電および木曽電気興業との合併が決まり、1921年(大正10年)2月、3社の合併が成立して大同電力株式会社が発足した。
大同電力でも近藤は引続き常務取締役に選出された[10]。同社では旧大阪送電が計画していた木曽川から関西への送電線「大阪送電線」の建設が優先され、旧日本水力が発注していた資材を転用して1923年(大正12年)に竣工した。近藤は常務として同送電線の建設にあたる[1]。なお近藤の下で同社送電課長として送電線建設に参加したのが後に常務に昇進する藤波収である[11]。
1926年(昭和元年)12月、大同電力の傍系会社として昭和電力株式会社が設立され、北陸地方での電源開発および北陸から関西への送電線建設を同社にて手がけることとなった。設立に際し、近藤は初代取締役副社長に就任する(社長は増田次郎)[12]。1929年(昭和4年)、同社の「北陸送電幹線」が完成し、翌年には庄川の祖山発電所も運転を開始した。
1929年(昭和4年)12月大同電力の常務を辞任[13]。1931年(昭和6年)5月には昭和電力副社長も辞任し[12]、翌1932年(昭和7年)12月には留任していた大同電力取締役からも退いた[13]。後進に道を譲った近藤は、大同電力技術顧問となり閑地についた[1]。
1954年(昭和29年)1月1日、東京都品川区小山町の自宅にて死去[14]。満79歳。
参考文献
- ^ a b c d e f g h i j k l m 家仲茂 『関西電気人物展望』昭和10年版、向陽荘、1935年、64-66頁
- ^ a b c 『人事興信録』第5版、人事興信所、1918年、こ90頁。NDLJP:1704046/1047
- ^ 「学事 第一高等学校卒業証書授与式」『官報』第3908号、1896年7月9日付。NDLJP:2947188/2
- ^ 「学事 東京帝国大学各分科大学卒業証書授与式」『官報』第4808号、1899年7月12日付。NDLJP:2948098/4
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第701号、1914年12月2日付。NDLJP:2952808/10
- ^ 『職員録』(大正8年5月1日現在)、印刷局、1919年、105・108・462・490-491頁。NDLJP:986601/273
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第2170号、1919年10月28日付。NDLJP:2954283/4
- ^ 「叙任及辞令」『官報』第2191号、1919年11月22日付。NDLJP:2954304/2
- ^ a b 大同電力社史編纂事務所(編)『大同電力株式会社沿革史』、大同電力社史編纂事務所、1941年、40-44頁
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』、53-54頁
- ^ 『関西電気人物展望』昭和10年版、59-62頁
- ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』、363-367頁
- ^ a b 『大同電力株式会社沿革史』、62-65頁
- ^ 「近藤茂氏死去」『読売新聞』1954年1月3日付朝刊
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