軽王子と衣通姫 あらすじ

軽王子と衣通姫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 08:12 UTC 版)

あらすじ

第一部
崩御した先皇・雄朝津間稚子宿禰天皇の皇后が、深夜に下部たちに松明をかかげさせ、先皇のへと急ぐ時、あやしい火が陵のあたりで、かき消えたのを見た。侍臣たちがその火の消えた元へ行くと、白い裳の美しき女人が立っていた。それは皇后の妹君で、先皇に寵愛された衣通姫であった。衣通姫は、海のかなたの伊余に流された軽王子を追って、その地へ落ちていく前に先皇の陵を拝し別れを告げに来たのだった。
ありし日、天皇は、皇后の妹君・衣通姫の艶色を伝える声の高いことを知り、姫の住む坂田へ使者を送り、姫を側室にした。衣通姫は藤原宮(奈良県橿原市)の人となり、天皇の寵愛し繁く通った。皇后は甚だしく嫉妬に苦しんだ。皇太子・軽王子は、まだ見ぬ一人の美しい人が、母も贈りえぬ喜びを父に与え、父も与えぬ苦しみを母に与えていることに苛立ち、禁を犯して藤原宮に忍び込み、父の思われ人の姿を初めて垣間見た。それ以来、王子は狩も忘れ、その美しい面影のために恋に苦しみ、ある夜ついに、もう一つの新宮の河内の茅渟宮(泉佐野市)にいた衣通姫の元へ忍んだ。天皇の面影のある美しい若者に姫も惹かれ、2人は愛し合うようになった。
天皇が崩御した後、軽王子は河内の茅渟宮をほとんど離れなくなり、祭事は弟宮・穴穂皇子に委ねられ、群臣も国人も軽王子に背いて弟宮についた。母皇后は、軽王子の方に即位を望んだが、軽王子はそれを受けなかった。その夜、弟宮が兵を急に挙げ、大前小前宿禰に裏切られ軽王子は捕えられた。心荒き弟宮・穴穂皇子は皇位に即位し、軽王子は伊余の湯へ流された。軽王子の後を追うことを決心した衣通姫は、亡き先皇の陵で、久しぶりの姉に出会い、その決心を仮宮で告げた。皇后は、自分は残る一生を先皇の喪の内に送る決心を妹姫に語り、わが子のうちで一番愛していたのは軽王子であり、軽王子が皇位に就くことをいかに切望していたかを、伊余の王子に伝えてほしいと頼み、自分の首にかけていた美しい「青玉の首飾り」を妹・衣通姫に与えた。
第二部
航海の途上で衣通姫は、幾多の神を見た。まだ瀬戸内海の島々にはその名を忘れられた数多の神々が隠れ棲んでいた。明日は伊余に着こうという日の夕刻、雲の合間に巨大な先皇の御顔が懸っているのを姫は見た。やがて再会した軽王子と衣通姫はしばらく言葉を交わすのも忘れ、床の上に崩れた。
伊余の邑(村)には、邑の男子で集めた兵がいた。それは、流された王子の跡を慕って来た股肱の石木の臣が王子のために募ったものだった。穴穂皇子の御位を覆すために、海を隔てて石木の臣たちの謀が進められていた。軽王子も姫と再会するまでは、叛乱の夢を日々の喜びとしていたが、思いがけない姫に入来で志は萎え、石木の奏する言葉も上の空で聞いていた。そして衣通姫から聞いた母皇后の託宣も、夜見の国においてのみ叶えられる「2人を王者と妃の死へと誘う、秘められた託宣」と聞き、姫との狂わしい愛の日々を送った。
石木は当初、衣通姫を「大御后」と呼び、軽王子の奥方とし、瑞兆の一つとしていたが、先皇の愛情とは違う、姫への狂おしい王子の愛を重い瞼の下で眺めはじめ、王子のなかに「悪しき神」が宿ったと見るようになった。冬が過ぎて春が訪れたある日、石木は王子に、明朝の軍立ちの伺いをたてた。「ならぬ」と言う王子に石木は、大御后(衣通姫)も軍立ちを承知であると言い、「或ること」を勧めたところ姫はそれを肯ったと告げた。軽王子が苦しげにそれが何かと問うと、石木は「死を」と答えた。軽王子は蒼ざめ、衣通姫の臥所に転び寄るが、すでに姫は石木が渡した「死の草の実」を服し、明日の暁までに絶え果てる命であった。
衣通姫が死ぬことを信じぬ軽王子は、石木を追い払い、青い首飾りをつけている姫をじっと見入った。王子の手のなかで姫の手は冷えはじめた。死の実をなぜ飲んだのか、姫はついに語らなかったが、今や王子にはまざまざとそれが解った。どんなに愛しても、今ほど王子と姫とが身近にいることはかつてなかった。何ものにも与ることなく、2人は露わに身と心を寄り添わせていた。王子は亡骸の傍らから立ち上がり、を抜き取った。その時、月光の窓に飛んできた大に、「わたしと衣通姫は夜見の国へ旅立ったと。何者もそれを妨げはしなかった。日の御子とその妃の死を妨げた者はなかったと」と母君への伝言を託し、王子は自分の咽喉を剣で貫いた。血しぶきが大鷲の羽もかかった。
石木の軍は、迎え撃った穴穂皇子の軍により海上で散々に討ち破られた。皇后は先に若葉の園で、片羽に黒赤色の斑らを持った白い大鷲を見て、思い当たるふしがあった。秘かに陸に上がった石木の臣は、たちまち捕えられたが、首を刎ねられる前に、先皇の大御妃様に奉ってくれと、美しい青い首飾りを穴穂天皇の兵に渡した。
90歳の長寿を保った皇后は、その青玉の首飾りをうなじから離したことはなかった。そこで首飾りは皇后の胸にかけられたままに納められた。

注釈

  1. ^ 1954年(昭和29年)、雑誌『現代』8月号に掲載されたもの。

出典

  1. ^ a b c d e 川端康成宛ての書簡」(昭和21年8月10日付)。川端書簡 2000, pp. 46–48、38巻 2004, pp. 255–257に所収
  2. ^ a b c d 高橋重美「軽王子と衣通姫」(事典 2000, pp. 75–77)
  3. ^ a b 高橋睦郎「解説」(殉教・文庫 1982, pp. 329–334)
  4. ^ a b c d e f g h i j k 「II 遍歴時代の作品から――『仮面の告白』以前 3『岬にての物語』、『軽王子と衣通姫』と禁じられたもの」(田坂 1977, pp. 127–144)
  5. ^ a b c 小埜裕二「『軽王子と衣通姫』論―神人分離と戦後」(イミタチオ、1991年6月)。事典 2000, p. 77、小林 2001, p. 53
  6. ^ a b c d 小林 2001
  7. ^ 井上隆史「作品目録――昭和22年」(42巻 2005, pp. 388–389)
  8. ^ a b c d 田中美代子「解題――軽王子と衣通姫」(16巻 2002, pp. 755–756)
  9. ^ 山中剛史「著書目録――目次」(42巻 2005, pp. 540–561)
  10. ^ a b c d e 「跋」(『岬にての物語』桜井書店、1947年11月)。26巻 2003, pp. 628–630に所収
  11. ^ a b 「年譜――昭和21年1月1日」(42巻 2005, p. 112)
  12. ^ 「第二部 平岡公威君の思い出」(三谷 1999, pp. 135–188)
  13. ^ a b c 「終末感からの出発――昭和二十年の自画像」(新潮 1955年8月号)。28巻 2003, pp. 516–518に所収
  14. ^ 私の遍歴時代」(東京新聞夕刊 1963年1月10日-5月23日号)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年4月)、遍歴 1995, pp. 90–151、32巻 2003, pp. 271–323に所収
  15. ^ 「焦土の異端児」(アルバム 1983, pp. 22–64)
  16. ^ 縄田一男「作品解題」(縄田 1992
  17. ^ a b c 「戦後派ならぬ戦後派三島由紀夫」(本多・中 2005, pp. 97–141)
  18. ^ 「日米合作の親善オペラ――悲恋物語“軽王子と衣通姫”」(読売新聞 1949年12月9日号)。補巻 2005, pp. 140–141に所収
  19. ^ 埴谷雄高宛ての書簡」(昭和24年10月)。補巻 2005, pp. 230–231に所収
  20. ^ a b 井上隆史「解題――日米合作の親善オペラ――悲恋物語“軽王子と衣通姫”」(補巻 2005, p. 649)





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「軽王子と衣通姫」の関連用語

軽王子と衣通姫のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



軽王子と衣通姫のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの軽王子と衣通姫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS