西園寺公相 西園寺公相の概要

西園寺公相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:57 UTC 版)

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西園寺公相
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 貞応2年(1223年
死没 文永4年10月12日1267年10月30日
改名 公輔(初名)→公相
別名 冷泉相國
官位 従一位太政大臣
主君 後堀河天皇四条天皇後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇
氏族 西園寺家
父母 父:西園寺実氏、母:家女房
兄弟 公基公相姞子公子、道勝、道耀、守助、教子
徳大寺教子(徳大寺実基の娘)
八十前(中原師朝の娘)、藤原定家の娘
園基氏の娘
実守、尊教、実兼嬉子、勝恵、実康、実顕橋本実俊、相子、近衛基平正室、徳大寺実孝[1]九条忠教
養子:寿子
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経歴

元仁2年(1225年)、従五位下叙爵1232年-1233年従四位上左近衛中将文暦2年(1235年)には播磨介と、国司も務める。

嘉禎2年(1236年従三位。続けて仁治2年(1241年)に正二位に叙される。延応元年(1239年従二位権大納言に叙任され、建長5年(1253年)左近衛大将に任命される。建長6年12月(1255年)に右大臣正嘉元年(1257年)[従一位、正嘉3年(1259年)に左大臣ついで弘長元年12月(1262年)に太政大臣となる。

文永4年(1267年)10月12日、父に先立って45歳で薨去。

西園寺家家嫡となる

実氏の長男は公基であり、当初は公基が嫡男として遇されていたようである。しかし本郷和人によれば、公基の生母が九条道家の側近の娘であり、九条家と幕府の間の軋轢を見た実氏が次子公相を家嫡に変更したために公基と公相の地位が逆転したのである[2]。ただし、公相の生母の出自はあまり高くはなかったようである。

公相にまつわる奇妙な話

増鏡』の増補本系本文には公相にまつわる奇妙な話を見ることができる。「第八 山のもみぢ葉」中に「公相の述懐」と「公相の死」が描かれている。父実氏よりも早く死ぬだろうと本人が思っていたこと、公相が薨去した時に棺から首が盗み取られて外法に使われたこと、などである。また『徒然草』第114段には、随身が漏らした御者への悪口を聞き咎めて暴行を加えるという、公相の気性の激しい人となりが描かれている。

琵琶秘曲伝授に関わる

藤原実宗藤原師長を琵琶の師として以来、西園寺家では代々琵琶の秘曲伝授に関わってきたが、公相も仁治元年(1240年)10月11日に藤原孝道から秘曲楊真操の伝授を受けた記録が残る[3]。また、『文机談』にも公相が琵琶秘曲伝授に関わっていたことを示す記事が見られる。 建長4年(1252年)4月には、後深草天皇が琵琶を始めた時の伝授者として関わったことが「冷泉相国記」[4]に記されている。

官歴

※以下、『公卿補任』の記載に従う。


  1. ^ 系図纂要徳大寺公孝
  2. ^ 『ぐんしょ』57、平成14年夏、vol.15-No. 3に所収の「公基卿の賀礼」による。
  3. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「冷泉太政大臣御記」
  4. ^ 『圖書寮叢刊 伏見宮楽書集成一』所収、「冷泉相国記」
  5. ^ 『系図纂要』


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