葺石
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関連文献
- 今西龍「第21号塚」『宮崎県児湯郡 西都原古墳調査報告』1915年。
- 高橋健自『古墳と上代文化』1922年。
- 原口正三・西谷正「弁天山C1号墳」『弁天山古墳群の調査』大阪府教育委員会、1967年。
- 中沢重一「久保泉丸山古墳の移設と保存処理」『鴻池組 技術研究発表会論文集』鴻池組、1983年。
- 和田晴吾「古墳時代の時期区分をめぐって」考古学研究会『考古学研究』第34巻第2号、1987年。
- 寺沢薫「纒向型前方後円墳の築造」同志社大学考古学シリーズⅣ『考古学と技術』同志社大学考古学シリーズ刊行会、1988年。
- 石野博信編『全国古墳編年集成』雄山閣、1995年11月。ISBN 4-639-01326-4
- 和田晴吾「古墳文化論」歴史学研究会・日本史研究会編『日本史講座第1巻 東アジアにおける国家の形成』東京大学出版会、2004年5月。ISBN 4-13-025101-5
- 広瀬和雄・宇垣匡雅・大久保徹也ほか『古墳時代の政治構造―前方後円墳からのアプローチ』青木書店、2004年5月。ISBN 4-250-20410-3
外部リンク
- 五色塚古墳・大歳塚古墳Web-site(五色塚古墳管理事務所)
- 古墳Moodys「保渡田古墳群」(古墳考現学会)
- 『葺石』 - コトバンク
注釈
- ^ 墓本体に対し、葺石、埴輪列、濠、石垣などを古墳の外部施設あるいは外部構造と呼んでいる。葺石はとくに外表施設と呼ばれることも多い。
- ^ a b 終末期古墳に多い墳丘裾部にめぐらされたものは「外護列石」と称し、通常は区別する[1]。
- ^ 尚、関東平野に限ってみれば、この平野の主要部を占める関東ローム層から成る台地及びこれの浸食で生成した沖積平野は著しく石材に乏しく、後世の近世城郭において他の地域で石垣が普通に使われる場面であっても佐倉城にみるように盛り土の露出したままで済ませるのが通例であった。中央政府の座として全国諸大名に軍役を課して石材を供出させて巨大な石垣を建造した江戸城は例外に類する。
- ^ 讃岐(いまの香川県)が古くより石文化の盛んな地であったことは、『播磨国風土記』にも、景行天皇の時代、播磨の伊保山の石工集団が讃岐の羽若から移住したという記事があることでも知られる。また、古墳時代に先行する弥生時代において石器素材として讃岐産のサヌカイトと称される安山岩石材が、交易により広く流通した前史を有する。
- ^ 箸墓古墳の石室の用材と同じ石が、古墳所在地付近の土中にふくまれており、この石は大和川左岸の芝山(大阪府柏原市)頂上付近でみられる芝山火山岩であることが判明しており、芝山は、古く「大坂」と呼ばれた地域のなかにふくまれる[7]。
- ^ 『日本書紀』崇神10年9月条に以下の記載がある。是(こ)の墓は、日(ひる)は人作り、夜は神作る。故(かれ)、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おおみたから)相踵(あいつ)ぎ、手遞伝(たごし)にして運ぶ。時人(ときのひと)歌(うたよみ)して曰わく、
大坂に継ぎ登れる石群を手遞伝に越さば越しかてむかも - ^ 福岡市東区に所在する名子道2号墳(西新式古段階の弥生土器が出土)は長径7メートルの弥生墓(長方形墳)であるが、葺石をともなっている[8]。
- ^ 寺沢薫 (1988) は「纒向型前方後円墳」、和田晴吾 (2004) は「纒向前方後円形周溝墓」と呼称している。
- ^ 岡山市の都月2号弥生墳丘墓などはその典型例に相当する[12]。
- ^ 4世紀後半造営とみられ、古市古墳群との関連も指摘される古墳である。
- ^ 5世紀から6世紀にかけての古墳が分布する遺跡。
- ^ 青木の掲げた表では、1類が5事例、2類が11事例、4類が5事例であるのに対し、3類は46事例にのぼる[26]。
- ^ 鴫谷東1号墳では、保存状態のよい葺石と埴輪列が検出されている。裾部の葺石配置には一定の施工単位が認められる。葺石における大小の石はきわめて精緻に並べられ、最も外側の石は大きなものが選択されて、さらにその外方に一定間隔を置いて埴輪列を並べるという処理が施されている[28]。
- ^ なお、上総、尾張、丹後、伯耆などでは、当該地域最大の古墳が古代の港湾との関係で出現している[33]。
- ^ 森浩一は、五色塚古墳について、「葺石というよりも積石墳の仲間にいれてもよいほど、大量の礫で墳丘をおおいつくしている」と表現している[37]。
- ^ 五色塚古墳の葺石の石材産地は淡路島と推定されている[39]。
- ^ 五色塚古墳の調査成果については、現状では概報があるのみで、未だに正式な報告書が刊行されていない。古墳整備事業の先駆的取り組みであるとして本報告のなされることを待ち望む声も多い[40]。
出典
- ^ 岩崎 (1992) p.8
- ^ a b c d e f 青木 (2003) p.188
- ^ 大塚・小林 (1982) p.362
- ^ 寺沢 (2000) p.301
- ^ 石塚 (1992) p.63
- ^ a b 森 (1985) p.60
- ^ a b 森 (1986) p.235
- ^ 柳田 (1986) p.164
- ^ 石野 (1990) p.5
- ^ 白石(2002)p.49
- ^ a b c 近藤 (2001) p.141
- ^ 近藤 (2001) p.141
- ^ 石塚 (1992) p.60、原出典は今西 (1915)
- ^ a b 石塚 (1992) p.60-61、原出典は高橋 (1922)
- ^ a b c 青木 (2003) p.179
- ^ 石塚 (1992) p.61
- ^ 原口・西谷 (1967)
- ^ 石塚 (1992) p.62
- ^ 石塚 (1992) p.62-67
- ^ 石野ほか『古墳時代の研究 7』 (1992) 図版
- ^ 石塚 (1992) p.67。原出典は中沢 (1983)
- ^ 「第6章 葺石構築法とその変化」、青木 (2003) p.179-193
- ^ 青木 (2003) p.180。なお、青木はこのなかで「基底石」の呼称を、今後議論と検討を重ねる必要のある便宜的呼称であると断っている。
- ^ 青木 (2003) p.180。原出典は和田 (1987)
- ^ 青木 (2003) p.180。原出典は石野 (1995)
- ^ 青木 (2003) p.181
- ^ 青木 (2003) p.185-187
- ^ 石野ほか『古墳時代の研究 7』 (1992) 図版
- ^ 大塚・小林 (1982) p.345.ほか多数
- ^ 広瀬 (2003) p.134、p.179
- ^ a b 広瀬 (2003) p.180
- ^ 青木 (2003) p.189
- ^ 森 (1986) p.288
- ^ 森 (1986) p.278
- ^ 広瀬ほか『古墳時代の政治構造』 (2004) p.32-33
- ^ 新納 (1992) p.160
- ^ 森 (1986) p.282
- ^ 石塚 (1992) p.61-62
- ^ 森 (1986) p.276-278
- ^ 青木 (2003) p.179
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