荒川橋梁 (東北本線)
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初代荒川橋梁
単線での架設
荒川橋梁(初代) | |
---|---|
東北本線初代荒川橋梁の建設工事 | |
基本情報 | |
国 | 日本 |
交差物件 | 荒川 |
設計者 | チャールズ・ポーナル[10] |
施工者 | 小川勝五郎 |
建設 |
1883年5月 - 1885年2月13日[11] 複線化1894年4月 - 1895年3月[12] |
橋桁製作者 | アンドリュー・ハンディサイド(単線トラス桁)/ コクラン(複線トラス桁) / 新橋鉄道局製作場(プレートガーダー) |
構造諸元 | |
形式 | 54ft4.5in単線プレートガーダー38連×複線+100ft複線下路ポニーワーレントラス桁4連+54ft4.5in単線プレートガーダー10連×複線 |
上部工材料 | 鋳鉄→鋼鉄 |
下部工材料 | 煉瓦 |
全長 | 3,032ft(約924 m)[13] |
最大支間長 | 100ft(約30 m)[13] |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
東京から高崎への鉄道は、川口と熊谷で工区を分割し、第二工区の川口 - 熊谷間が先行して着工されていた[8]。これに引き続いて第一工区の上野 - 川口間は1882年(明治15年)10月下旬に着工した[13]。この当時、この橋が架設された現場付近では普段水が流れているのは幅約330尺(約100メートル)ほどで、北側は水流から約650尺(約197メートル)離れたところに高さ約10尺(約3メートル)の堤防があり、南側は約6町(約654メートル)でこれと同程度の高さとなる[14]。この時点では荒川と新河岸川にははっきりした区別がなく、赤羽方の橋台は後の橋梁に比べると約100メートル赤羽側に入り込んだ位置にあった[15]。当初は木製の仮橋を架設し、1883年(明治16年)7月26日に上野 - 川口間が竣功して[13]、7月28日から上野 - 熊谷間の営業を開始した[16]。この時の木製仮橋は、本設橋梁より下流側(東側)に架設されていた[17]。
1883年(明治16年)5月から本設の橋梁にも着手した[13]。橋梁は品川起点13マイル5チェーン(約21キロメートル)から13マイル51チェーン(約21.9キロメートル)までの範囲にあり、上野への路線と品川への路線の赤羽における分岐点からは27チェーン(約540メートル)の位置にあった[18]。設計はお雇い外国人のチャールズ・ポーナルによるもので[10]、小川勝五郎が請け負って建設した[13]。また橋の建設に使用した煉瓦は高島嘉右衛門が請け負って、川口付近に煉瓦製造所を設置して焼き、できあがったものの中から最上級品を選んで納入した[13]。
橋梁は全長3,032フィート1.5インチ(約924.2メートル)あり、そのうち平時の水流に架かる部分に4連の全長100フィート(約30.48メートル)の錬鉄製ポニーワーレン式トラス桁が[13][19]、トラス桁南側に38連、北に10連の合計48連の全長54フィート4.5インチ(約16.6メートル)のプレートガーダー(桁橋)が架設された[20]。
トラス桁の橋脚の基礎は、2フィート(約0.6メートル)の厚さで煉瓦を巻いて造った直径12フィート(約3.7メートル)の井筒を19フィート(約5.8メートル)離して2つ、約50フィート(約15.2メートル)まで沈降させて、内部にコンクリートを充填して建設した[21]。この2つの井筒基礎の間に20フィート(約6.1メートル)の半円を描くように煉瓦でアーチを組み立て、高さ22フィート9インチ(約6.9メートル)、幅38フィート(約11.6メートル)、頂部での厚さ7フィート(約2.1メートル)の橋脚を建設した[22]。プレートガーダー部の橋脚合計46基は、下部が幅12フィート6インチ(約3.8メートル)、厚さ5フィート3インチ(約1.6メートル)あり、その上部は幅12フィート(約3.7メートル)、厚さ4フィート10.5インチ(約1.5メートル)、高さ平均15フィート(約4.6メートル)の構造となっていた[23]。橋台も煉瓦製で、基礎にコンクリートを使用している[24]。
上部構造については、トラス桁は幅2フィート2インチ(約0.6メートル)、高さ10フィート4インチ(約3.1メートル)あり、横から見ると二等辺三角形が17個並んだ形になっている[25]。このトラス桁の対を15フィート(約4.6メートル)離して配置している[26]。
橋梁上の線路は平坦で、南側で半径30チェーン(約600メートル)の曲線を描いて橋に進入してくる関係で、橋の最初の2連の桁には曲線が入っている[27]。また当初は単線で建設されていたが、将来的な複線化を計画していた関係で、両端の橋台と中央のトラス桁の橋脚は最初から複線分の幅が用意されており、またトラス桁の両側のプレートガーダー部には半径20チェーン(約400メートル)の曲線をS字に入れて複線用のトラス桁の幅に対応するようになっていた[27]。平均水面から桁の下部までは22フィート(約6.7メートル)あった[27]。
トラス主桁はイギリスのアンドリュー・ハンディサイド製のもので、部品を船舶で運び込んで現地で組み立てた[28]。これ以外の橋桁類は新橋鉄道局製作場において製作した[29]。橋桁の組み立て作業は、新橋 - 横浜間建設の際に六郷川橋梁建設に使用したゴライアスクレーンを用いた[29]。また現場にはドコービル式の工事軌道が敷設されて資材運搬に用いられた[29]。
1883年(明治16年)7月と10月には洪水が発生したが特に障害となることはなく、1884年(明治17年)1月には現地にトラス桁が到着し、4月には橋脚が完成して5月にトラス桁の架設が完了した[11]。しかしプレートガーダーが到着していなかったため6月から工事が中断し、12月になってようやく工事が再開されて、1885年(明治18年)2月13日に橋が完成し、2月14日に機関車の試運転を行ったうえで、2月16日に供用を開始した[11]。工期は21か月で、このうち5か月間は工事を休止していた[11][注 1]。トラス桁の費用が24,000円、桁橋のプレートガーダーの費用が68,640円、その他の物品の費用が63,500円、人件費が38,700円の、総工費194,840円であった[30]。
複線化
日本鉄道では1889年(明治22年)1月に上野 - 大宮間の複線化を決議し、3月6日に政府の許可を得た[31]。直ちに着工し、1892年(明治25年)10月19日に一通り竣功したが、荒川橋梁の複線化が完成していなかったため赤羽 - 川口町(後の川口)間のみ単線運転をしていた[15]。荒川橋梁の複線化に当たっては、仮線の敷設や運休などは行わずに、列車を運行しながら従来の単線トラス桁を複線トラス桁に交換する作業を実施した[12]。また、プレートガーダー部については1線分の新設を実施した[15]。新設したプレートガーダーの側が上り線で、この際に新たに建設した橋脚は下り線のものと密接して一体となるようにされた[32]。また下り線橋脚建設時には無かった杭打ち基礎が用いられている[32]。新たに架設された複線トラス桁は、イギリスのコクラン製のものである[33]。
1894年(明治27年)4月に着工し、翌1895年(明治28年)3月に竣工して、4月1日より供用を開始した[12]。これにより上野 - 大宮間の全線複線化が完成した[34]。なおこの時架設した橋桁は全部または大部分が、当初の錬鉄製から鋼鉄製になっているのではないか、という説があるが、はっきりしない[12]。開通当初、全長3,032フィート1.5インチ(約924.2メートル)とされていた荒川橋梁は[19]、後の関東大震災時の記録では上り線3,034フィート6.25インチ(約924.9メートル)、下り線3,033フィート4.75インチ(約924.6メートル)とされている[32]。また複線化に際して撤去した単線トラス桁は、日本鉄道磐城線(後の常磐線)の久慈川橋梁に転用されたと伝えられている[34]。
日本鉄道は1906年(明治39年)11月1日に国有化され、1909年(明治42年)10月12日に国有鉄道線路名称が制定されて、上野 - 大宮間を含む線路は東北本線と命名された[35]。これにより荒川橋梁は東北本線の橋梁となった。
関東大震災
1923年(大正12年)9月1日に大正関東地震(関東大震災)が発生し、関東地方の鉄道網は大損害を受けた[36]。荒川橋梁においては、橋台・橋脚ともにすべてが沈下あるいは傾斜し、第34号から第36号橋脚では最大沈下が約5フィート(約1.5メートル)に及んだ[32]。また橋脚の煉瓦に亀裂が入ったり、孕みだしたり、剥落したりする被害も生じた[32]。
トラス桁の橋脚は亀裂や剥落の発生した場所をコンクリートで巻き立て、また傾斜したプレートガーダー部の橋脚については枕木で枠を組み立ててプレートガーダーを支える応急処置を行った[37]。荒川橋梁を含む東北本線の赤羽 - 川口町間は、9月4日に上り線が、9月17日に下り線が、それぞれ運転を再開して復旧した[38]。
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関東大震災被災直後、軌道が歪んでいる様子
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橋脚の応急復旧工事
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被害を受けた橋脚が応急修復されたところ
注釈
出典
- ^ “荒川橋(旅客線)1966-11”. 土木学会付属土木図書館. 2015年7月17日閲覧。
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- ^ 赤羽北の不発弾処理 住民一時避難し無事終了東京MXテレビ2013年11月17日配信
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