航海条例 1651年以降の航海条例

航海条例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 07:46 UTC 版)

1651年以降の航海条例

茶税法に反対するアメリカ住民の抗議行動(ボストン茶会事件

1651年の航海条例は、イングランド植民地における外国船(オランダ船)の交易を禁じていた[8]1660年には、砂糖タバコなどの植民地の主要産物は本国にのみ輸出できるとし(他国への輸出を禁止)[11]、イングランドに直接送られる特定輸出品がリストアップされるようになった。特定輸出品は砂糖(1739年まで)、、タバコなどで、18世紀には糖蜜が加わった[1]。さらに1663年の条例(指定市場法)は、ヨーロッパから植民地への輸出はイングランドを介して行うものとした[11]。これによってイングランドは植民地との交易を完全に掌握するに至り、密貿易を取り締まる目的で1673年にも再制定された。1696年航海条例は、商務植民地庁(商務院、イギリス商務省の前身、Board of Trade and Plantations)を設置し、貿易の統制・監督を行わせるためのものであった。1773年にも、西インド諸島の砂糖を対象に重税を課した法が制定され、このため砂糖の値段が急騰した。この法は糖蜜条例と呼ばれた[12]

本国と植民地

ヴァージニアのタバコ工場で働く奴隷たち

この航海条例は本国と植民地の相互関係にあったが、反対運動も起こった。ジェームズ2世が、条例を悪用して植民地の自主性を妨害したことへの非難や、この条例の課税手段化への反発もあった。また、本国の産業を守るために、帽子作りや羊毛工業に歯止めをかけ、植民地産業のダメージをもたらした。1750年にも、競合を避ける意味から、植民地の錬鉄加工の発達に待ったをかけたこともあった[13]

西インド諸島のドックランド博物館、元は砂糖工場であった。

帽子や鉄鋼にまつわるあからさまな制限、あるいは密輸は、かなり一般的に行われ、17世紀から18世紀にかけては、北アメリカへ、複雑な海岸線を利用しての密輸が後を絶たず、本国政府もこれへの対応が遅れていた。それ以外に関税機関の職権乱用や、賄賂、偽造などが密輸を手助けした。18世紀半ばには、密輸が当たり前になり、砂糖法1764年)や茶法1773年)が定められたが、密輸業者への懲罰というよりは、アメリカの愛国者蜂起の火に油を注ぐ結果となった。イギリス帝国の貿易は、アメリカ植民地あってこそのもので、また、ニューイングランドの造船産業は、航海条例による保護貿易の恩恵を受けていた。その後に開かれた第一回大陸会議では、ベンジャミン・フランクリンにより、航海条例をアメリカの諸植民地に沿って制定するという提案がなされた[13]

1707年合同法施行までスコットランドは外国として扱われ、1670年から1779年の間、アイルランドは条例の適用外だった[1]

航海条例の廃止

これら諸航海条例は、次第に強制力の強いものとなり、それへの反発でアメリカ独立戦争が起こり、条例は重大な危機に瀕した。その後違法行為が増え、輸出品目の列挙は1822年に廃止された[1]

イギリスにおける自由貿易の支持者の台頭により、航海条例と同じく保護貿易政策だった穀物法1846年に撤廃された。航海条例も1849年1854年とを以て撤廃された[14]




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