航海条例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 07:46 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動Actsと複数形で呼ばれるのは、航海条例が制定されたのが複数回(1381年から1696年にかけて9回)だからであるが、ここでは、歴史的に最も頻繁に言及される1651年の航海条例を中心に扱う。
概要
1381年・1485年・1540年の航海条例は、海運を盛んにし、海上防衛を強化する点に重きが置かれていた[1][2][3]。 1381年に成立した条例は、イングランド所有の船が当時は少なかったため、無効化した[1]。1540年の法制定時には、イングランドの貿易商は、大きくて不便なイングランド船よりも、小回りの利くオランダ船を主に使いたがっていた[3]。
1651年の航海条例は、オリバー・クロムウェルが実権を握っていたイングランド共和国の議会により可決され、共和国政府が発布した条例で、オランダ商人による中継貿易の排除を目的とした。英蘭戦争のきっかけとなり、イギリス商業革命の要因ともなった。
明文化はされていないが、フランスや当時中継貿易の主役であったオランダの排除が狙いであることは明白であり、この法案の起草者・支持者もそれを狙っていたといわれる。航海条例の制定を推進・支持した者について、オランダ商人に対抗していたイングランド貿易商人(特に特権から排除されていた密貿易商)の存在が指摘されている。[要出典]
歴史的背景
航海条例制定を決定づけたのは、八十年戦争におけるイングランドの貿易の大きな落ち込みであり、それと同時に起こった、スペイン帝国とオランダ共和国間の通商停止の解除だった。両国の通商停止が1647年に終わったことで、中継貿易港アムステルダムの全権と、他にオランダにおいて他国と競合しうるだけの利益とが解放された。
その後数年で、イングランドの商人はイベリア半島や地中海地域、レバントにおける貿易でオランダに圧倒された。イングランド植民地との貿易でさえも(当時は清教徒革命の最終段階に当たっていて、イングランド共和国が植民地に対してまだ権威を持っておらず、一部の王党派の勢力下にあった)イングランドは貿易面でオランダの独占状態に遭い、直接貿易もレバント、地中海、そしてスペインやポルトガル帝国からの商品が一気に押し寄せてきたため締め出しを食らい、西インド諸島との貿易もオランダの貨物船を使ったため、オランダの収益となった[4]。
元より経済状態のよくなかったイングランドでは、1649年、貸付金の安全性を高めるべく、ランプ議会が教会や王室および王党派の領地没収を行った。それでも財政は潤わず、議会はニューモデル軍の縮減を要求するに至ったが、これに反発した軍はランプ議会を解散させ、総選挙を要請した。その後の国政は混乱を経て、新たにベアボーンズ議会と呼ばれる議会が誕生、やがて1653年にクロムウェルの護国卿就任へと繋がった[5]。
イングランドとスコットランドは、これらの望まざる輸入にはかかわらないのが、どうやら正解のようだった。イングランドが先例としたのは、グリーンランドカンパニーが、1645年に、自社の船以外の貨物船で、クジラ製品輸入を禁じた条例だった。1648年には、レバントカンパニーが、国会に、トルコの商品を、オランダやほかの土地の経由でなしに、生産地からじかにイングランドに輸入してほしいとの請願を出した[6]。バルト海沿岸の国々と貿易をおこなう商人たちもこれに便乗し、1650年にはStanding Council for Trade(常設貿易委員会)とイングランド共和国国務評議会とが、地中海や植民地の産物を、オランダ経由でイングランドに輸入されるのを阻止する総合法を立案した[7]。
航海条例の制定
クロムウェルが実権を握っていた時期にこの法案が議会を通過したため「クロムウェル航海法」とも呼ばれるこの法案には、実際はクロムウェルは関わっていない。1651年10月に議会を通過したとき、クロムウェルは国王軍討伐の遠征の途上にあった。法案はピューリタン革命で議会に残ったランプ議会が通過させたが、この発案者や推進者が誰なのかは分かっていない。クロムウェルは、プロテスタント勢力が相争うことになると思われるこの法案に批判的であり、クロムウェル率いる軍と議会の溝は深まっていった。[要出典]
1651年、クロムウェル指揮下の議会で、最初の航海条例の法案が可決された。この法案は、イングランドの植民地貿易の利権を守るため、そして、急成長するオランダの海洋貿易から、イングランドの産業を守る目的があった。 その条件としては
である。また、イングランドは、居住地でなく国籍を重視したため、イングランド植民地の住民は、植民地間の貿易をおこなうことができた。 また、イングランド領アジアやアフリカの物品は、ブリテン諸島やアメリカの植民地のみにしか送れなかった。逆に、西インド諸島やアメリカの植民地からは、外国船で諸外国に送ることができ、ヨーロッパ諸国の輸出品は、イングランド船で運送するか、産出国の船で運ぶかのどちらかだった[8]。
この条例は特にオランダに対象を絞っていた[5]。元々同じプロテスタントの共和国(当時)として、友好関係にあったオランダとの関係が、三十年戦争でオランダがスペインの所領と市場の多くをものにしたことで変化、イングランドと張り合うようになった[9]。オランダはヨーロッパの各国間での貿易の大部分と、イングランドの沿岸貿易の多くをも握っていた。
条例によりオランダは、不可欠であるイングランドとの貿易から締め出された。オランダの経済は競争力があったが、イングランドと互いを捕捉し合う関係にはなく、条例施行後も両国間での取引はなされていた[10]。しかしこの条例によって、オランダの商業が依存していた中継貿易は無力化され、オランダの船は、オランダの輸出品(主に乳製品)をイングランドとその植民地に送るだけになった[5]。しかも、この貿易での収益は、オランダの貿易収益全体ではごくわずかであった。
航海条例はしばしば第一次英蘭戦争の主な原因と言われるが、条例そのものは、イングランドの大々的な外交方針の一部でしかなかった[10]。その方針に基づいて、オリバー・シンジョンとウォルター・ストリックランドが、イングランドとオランダの同盟を交渉したものの失敗に終わり、シンジョンは交渉で恥をかかされたことへの仕返しとして、この条例を推進した[5]。
1652年、両国は交戦状態に踏み切った。1653年にイングランド海軍はポートランドの戦い、ガバードの戦い、そしてスケフェニンヘンの戦いの勝利と、自国領海の戦いで圧倒的な強さを見せた[10]。元々は、1651年の条例の限定条項を無視したオランダ船への攻撃が発端だったが[8]、バルト海や地中海といった、戦場をはるか離れた場所では、オランダはイングランドの貿易を停止し、独占権を握っていた。英蘭両国は、互いの首を真綿で締めるようなことをやっていた [10]。最終的に、オランダは条例を認めざるを得なくなった[8]。
1658年にクロムウェルが没し、息子のリチャード・クロムウェルが護国卿に就任したが、軍との軋轢から失脚し、これが王党派の勢いに火をつけて清教徒革命の終焉と王政復古への道を早めた。航海条例は、王政復古後も続いたが、18世紀以後は様々な制約が加えられた[5]。
- ^ a b c d e f g Navigation Acts (United Kingdom) -- Britanica Online Encyclopedia
- ^ Navigation Act
- ^ a b Liberty vs Power in Europe and England by Murray N. Rothbard
- ^ Israel (1997), pp. 305–309
- ^ a b c d e The Navigation Act 1651
- ^ Israel (1997), p. 309
- ^ Israel (1997), pp. 309–310
- ^ a b c d e 1651-Navigation Acts
- ^ An overview of the Navigation Act of 1651 - by Mark Hopkins - Helium
- ^ a b c d Israel (1997), p. 316
- ^ a b Purvis, Thomas L. (23 April 1997). A dictionary of American history. Wiley-Blackwell. p. 278. ISBN 978-1-57718-099-9 2011年7月26日閲覧。
- ^ Navigation Acts***
- ^ a b Navigation Acts Facts, information, pictures | Encyclopedia.com articles about Navigation Acts
- ^ Anthony Howe, January 2004 Free Trade and the Repeal of the Corn Laws
- 1 航海条例とは
- 2 航海条例の概要
- 3 1651年以降の航海条例
- 4 脚注
航海条例と同じ種類の言葉
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