最上義光 参考文献

最上義光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 14:55 UTC 版)

最上 義光(もがみ よしあき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての出羽国大名最上氏第11代当主。出羽山形藩の初代藩主


注釈

  1. ^ 『山県市史』では、母は不詳としている[2]
  2. ^ 『山県市史』は、これについて父・義守の誤伝の可能性を記述している[2]
  3. ^ 道中の安全と武運長久を祈って義光の母が刺繍した「文殊菩薩騎獅像」が現存する。
  4. ^ 母・小野少将(永浦尼)は早くとも慶長8年(1603年)晩春頃まで生存していたことが、地元、最上の千手堂観音に奉納された詠歌の額の存在から推測できる。詠歌「花を見ていまや手折らん千手堂 庭の千草もさかりなるらん」。
  5. ^ 粟野敏之は伊達晴宗・輝宗の対立に関して某年5月の日付で同家の重臣・牧野久仲に充てた栄林(最上義守)の書状の内容から伊達父子の内紛は最上父子の内紛より後の出来事であるとし、また牧野は元亀元年3月に失脚して伊達家を追放されていることから、義光の家督継承は元亀元年よりも前であるとしている。伊達晴宗の隠居は永禄7年(1564年)暮から翌年春とされているため、粟野は義光が元服してから間もない永禄4年(1561年)から翌5年(1562年)に義守と義光の対立および氏家の諫言による当主交代が行われたと推定する[5]
  6. ^ 山形新聞』平成6年3月4日朝刊の記事によれば、天正5年(1577年)に義光もまた信長に謁見し「最上出羽守」に任じられたという文書が発見されたという。
  7. ^ 太閤検地以前は、最上郡と村山郡は現在と名称が逆であった(詳細は最上郡村山郡の項を参照)。
  8. ^ この戦いは後世の創作ともされる。
  9. ^ 義光は義姫に対する書状で「諸大名の手前、和睦は屈辱であることこの上ない」(天正16年7月8日付)と述べながら、別の書状には「義姫の活躍が豊臣秀吉や徳川家康に伝わっている(惣無事違反になるのでこれ以上は戦えない)」(天正17年2月12日付)とも述べ、政宗との和議は望ましいところであった[7]
  10. ^ 『山形市史』は13万石の知行宛行状を与えられたと記している。
  11. ^ 小田原参陣前に義光が秋田実季に宛てた書状には「遅参を御朱印状で認められている」とある。
  12. ^ 最上家改易後、庄内藩主として入部した酒井忠勝は、道でこの歌に続き「~。今の殿様は雑魚、かじかにも役かける」と謳っていた盲人を城に呼び寄せ、「お前は正直な奴だ。だが源五郎(最上義光)は100万石(実際は57万石)で予の知行は10万石に過ぎない。だから役が必要なのだ」と諭し、褒美を与えて家に帰したと言われる。
  13. ^ 重臣・里見民部の家臣(義光の陪臣)原八右衛門とする説がある一方、最上家家臣の藤田丹波が覚書の中で主命を受けて義康を討ったとする記録を残している。
  14. ^ 乗阿は慶長8年(1603年)、光明寺の住職として招かれた。彼が領内に至ると義光自ら迎え、さらには置き場所に困るほど扶持米を届け乗阿を感激させた。

出典

  1. ^ 伊豆田忠悦「山形藩」(藤野保・ 木村礎・ 村上直編集『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 雄山閣出版、1988年)
  2. ^ a b c d 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 5.
  3. ^ 伊藤 2016, p. 30.
  4. ^ 伊藤清郎・山口博之『中世出羽の領主と城館 奥羽史研究叢書2』(高志書院、2002年)p.97-98
  5. ^ 粟野敏之「戦国大名最上氏の成立過程-元亀・天正初期の内訌をめぐって-」(初出:(『史学論集』10号、1980年)/所収:竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-257-5))、P57-58(2017年)
  6. ^ a b 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 8.
  7. ^ 遠藤ゆり子「戦国期奥羽における保春院のはたらき-戦国時代の平和維持と女性-」(『日本史研究』486号、2003年)(のちに改題所収:「奥羽の戦争と伊達政宗の母」(遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会』吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-02930-8))
  8. ^ 閏5月11日付中山光直書状、『横手市史 史料編 古代・中世』p.434。
  9. ^ 『史料総覧』11編912冊234頁「片倉代々記」「譜牒余録」「伊達貞山治家記録」
  10. ^ 「奥羽永慶軍記」巻之15・16 佐竹伊達合戦附岩城石川扱
  11. ^ 昭和『山形県史』近世編上による。
  12. ^ 伊藤 2016, p. 113。「伊達家文書」天正十八年十二月二十六日。
  13. ^ 『史料総覧』11編912冊321頁。「寛永諸家系図伝」
  14. ^ a b 伊藤 2016, p. 116
  15. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』
  16. ^ 伊藤 2016, p. 117.
  17. ^ 「上杉景勝等二十八名連署起請文」羽柴出羽侍従
  18. ^ 胡偉権「最上義康について」初出:(『山形史学研究』43・44合併号、2014年)/所収:竹井英文 編『シリーズ・織豊大名の研究 第六巻 最上義光』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-257-5))、P108-114(2017年)
  19. ^ 『大日本史料』12編3冊76頁
  20. ^ 伊藤 2016, pp. 231–232.
  21. ^ 伊藤 2016, p. 233、「北館文書」
  22. ^ a b 山形市市史編さん委員会、山形市市史編集委員会 1987, p. 4.
  23. ^ 「てんどうのむかしばなし第二集」
  24. ^ a b c 最上義光、やっぱり長身だった 山形大・松尾名誉教授「奥羽永慶軍記」で確認”. 山形新聞 (2022年6月25日). 2022年6月25日閲覧。
  25. ^ 最上義光歴史館編集 『特別展 重要文化財 光明寺本 遊行上人絵 ─最上義光 没後四百年記念 全巻公開─』 山形市発行、2013年9月
  26. ^ 後藤嘉一『やまのべ風土記 私設』(やまのべ文学会、1988年)
  27. ^ 寒河江市教育委員会『ふるさと寒河江の歴史』(2009年)


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