寒河江城主について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/17 14:54 UTC 版)
『西村山郡史』によれば天正12年6月、寒河江外記光俊をして寒河江城を守らしむ、との記載があるが、記述の根拠は示されていない。寒河江城は寒河江氏滅亡後最上義光の直轄領であったが、文禄年間最上義康の所領となり、慶長出羽合戦を経て慶長7年(1602年)頃から最上家親の所領となった。慶長14年(1609年)頃家親が山形城に移ると、「最上義光分限帳」にあるように寒河江肥前守広俊が二万七千石で領したが、慶長19年(1614年)最上義光が没すると寒河江肥前が殉死したため、再び最上氏蔵入り地になったという。分限帳作成時に光俊が既に没していたか、城代として寒河江城を治めた可能性が高い。
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