広沢真臣 生涯

広沢真臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 16:11 UTC 版)

生涯

幕末

長州藩士・柏村安利の四男として誕生する。弘化元年(1844年)12月、同藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称した。

藩校・明倫館に学び、嘉永6年(1853年)の黒船来航時には大森台場警衛のために出張。安政6年(1859年)には藩の軍政改革に参画するなど、尊攘派として活躍した。以後、藩世子毛利定広と共に入洛し、桂小五郎久坂義助の下、京都詰の事務方として尽力した。

元治元年(1864年)、長州藩は禁門の変下関戦争第一次征長と厄続きであったため、藩内の政権闘争で主戦派(主に正義派)が恭順派(主に俗論派)に敗れた結果、波多野も投獄されたものの、正義派でなかったために処刑を免れた。慶応元年(1865年)、高杉晋作伊藤春輔山縣狂介ら正義派がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野が政務役として藩政に参加することとなった。同年4月4日、藩命によって広沢藤右衛門と改名し、更に翌月の5月6日には広沢兵助と改名した。

慶応2年(1866年)8月末の第二次征長の講和交渉では、幕府側の勝海舟安芸厳島にて交渉し、また、同年10月に坂本龍馬薩摩藩五代才助と会談して「商社示談箇条書」を作成し薩長国産貿易商社の設立に尽力する(後日、計画は破談[2])など、木戸の代理人かつ同僚として奔走し、慶応3年(1867年)10月には大久保利通らと共に討幕の密勅の降下にも尽力するなど倒幕活動を推進した。

明治

維新政府の発足後は、参与海陸軍務掛東征大総督府参謀を務め、その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任。戊辰戦争では、米沢藩宮島誠一郎と会談して会津藩「帰正」の周旋を建白させるなど、木戸と同様に寛典論者であった。明治2年(1869年)、復古功臣として木戸や大久保利通と同じ永世禄1,800石を賜り、民部官副知事[3]や参議の要職を務めた。

明治4年(1871年1月9日東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺された。享年39。


  1. ^ 朝日日本歴史人物事典「広沢真臣」”. 2021年9月24日閲覧。
  2. ^ 五代友厚 薩長国産貿易商社(2)http://godaidon.com/2018-11-07/godai-tomoatsu-satsuma-choshu-trading-company-2/
  3. ^ 太政官『太政官中民部官ヲ置ク』国立公文書館デジタルアーカイブ、明治2年04月08日。太00017100https://www.digital.archives.go.jp/item/3179015 
  4. ^ 『官報』第2568号「叙任及辞令」1921年2月25日。
  5. ^ 徳富蘇峰『近世日本国民史 西南の役(一)』講談社学術文庫、1980年、p.61頁。 
  6. ^ a b 『逸事史補』
  7. ^ 『維新百傑』
  8. ^ 広沢真臣旧宅跡山口市文化政策課
  9. ^ 広沢真臣 ひろさわさねおみコトバンク
  10. ^ a b 『国際結婚第一号』小山騰、講談社 (1995/12), pp.192-196
  11. ^ 日本のガラス/明治時代一般社団法人東部硝子工業会


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