山縣有朋 評価

山縣有朋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/29 13:47 UTC 版)

評価

軍内部に与えた影響

明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。

これと見込んだ軍人や官僚を要職に就けて見捨てることがなく、これが自然と「山県系」ともいえる人脈を形成した[128]。しかしこれは同時に元長州藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも見え、長閥として嫌う者も多かった(ただし実務を担う官僚については、熊本県出身の清浦奎吾・山形県出身の平田東助・兵庫県出身の田健治郎など藩閥外の人物も多く抜擢している)。また近代日本初の大がかりな汚職疑惑に絡み、肥前の佐賀藩出身である江藤新平を戴く司法省の厳しい追及にあっていったんは辞職もしている(山城屋事件)。

明治40年(1907年2月1日に伊藤を総裁とする帝室制度調査局が立案した公式令が公布、内容が首相の権限強化による各大臣への統制と知ると、それが軍部にも及ぼすことを恐れた山県は伊藤と会談、両者の妥協で9月12日軍令が公布された。これで首相の軍統制が効かなくなり、のちに軍の統帥権独立による暴走につながったが、伊藤と山県は軍令濫用の危険性を承知しており、伊藤は会談終了後山県に軍令の使用について警告、山県も部下に軍令の濫用を戒めたという[129][130][131]

大正元年(1912年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している[注 10]。陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。そして山県の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく内閣は総辞職に追い込まれ[注 11]第3次桂内閣が発足するに至った[注 12]。寺内正毅の失脚・没後から、その勢力は急速に衰退していたが、山県の死去をもって長州閥勢力の終焉は決定的となった。

周囲の評価

護国寺内 山県有朋墓
左が有朋の墓。右が夫人の墓
中央公園(山口県萩市)に立つ「山県有朋公像」(北村西望制作)

吉田松陰の文章における山県の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山県が松陰と一面識もなかったことがわかるが、のちに入江杉蔵にあてた文書では「群材」の1人として「小助(山県)の気」を評価している。[132]

超然主義の領袖として自由民権運動の弾圧や大逆事件を積極的に推し進めたほか、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙などから山県の人気は生前から低かった。山県の権威が失墜した宮中某重大事件は、西園寺公望が山県に相談したことをきっかけに山県が動き始めたものであった[要検証]が、世間では藩閥間の対立ばかりが強調されて捉えられ(皇太子妃候補の久邇宮良子女王は旧薩摩藩主島津忠義の孫にあたるが、薩摩藩は古くから皇族・公家や幕府との強い縁戚関係を結んでいた)、結果的に山県1人が「悪者」となった側面もある。しかし、この事件をきっかけに山県を追い落とそうとした勢力が強かったということや、それを後押しした世論が大きかったことを考えれば、山県に対して反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方がなされている[要出典]

昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に、疎開中の皇太子・明仁親王へ宛てた手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第1次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として大山巌・山本権兵衛とともに山県をあげている[133]。立憲政友会総裁の原敬(東北の盛岡藩出身)は山県の外国への慎重姿勢を指摘し、山県が生きている限り日米戦争は起こらないと発言していた[134]

なお、山県は原を評価し、対抗関係にありながらも内閣総理大臣としての原を支持しつづけ、また影響力を行使しようとしていた。原が暗殺された折には深く嘆いたともいわれる。一方で原も山県を高く評価し、山県の影響力を十分承知して巧みに懐柔していった。だが『原敬日記』では、山県がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについては嫌悪を表しており、軽蔑の意を込め「あれは足軽だからだ」(実際の山県は足軽以下の中間出身)と述べている[注 13]

山県と同じく長州閥出身で大勲位となった伊藤博文と対比され、「含雪公(山県)と春畝公(伊藤)ほど対照的で、且つ力量の似通った一対も珍しい」と評された。現実に両者の政治姿勢はまったく違うものであったが、当人たちの仲は非常に良好で、お互いのよき相談役であった。なお、伊藤博文は山県とは対照的に邸宅や金銭に対する執着がなく(女好きとしては有名だった[135])、死去したときに財産らしい財産は残していない。

  • 勝海舟 「あれは正直一方の男サ」[136]
  • 尾崎行雄
    • 「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」[137]
    • 「方今第一流政治家中屈指の人物なるべし。然れども器局広大ならず、智慮深遠ならず、豪勇充足せざるがため、折角の親切もまま良果を得ずして、悪果を生ずるとあり。これ痛嘆大惜すべきなり」[138]
    • 「恐ろしく注意深い人で始終ものを二重にも三重にも考えたので山縣公は一生を通じてあまり大した失策がなく、公自身もそれを誇りとしていたようである」[139]
    • 「典型的な軍人で、必要と思われる以上に『軍人の面目』を重んじた」[140]
  • 三浦梧楼
    • 「山縣は世間から極めて謹直の人のように見られておるが、実は謀の人で、誠意の足らぬ所がある。これがアレの欠点だよ」[141]
    • 「用心深い、堅固な人という事には、何人も異論はなかろう。その用心深い所に堅き根底が築かれている。伊藤や井上の及ばなかったのもここに存するであろう」[142]
  • 伊藤痴遊 「実践の上で、後世に伝わるほどの事はしておらぬが、それでも元帥になって、陸軍の首脳であったのは、実に不思議というべきである。しかしながら、謹厳寡黙、すこぶる重厚の人柄で、どことなく押手の利いた人であった。子分も永い間に沢山養って、陸軍のほうにも、また政治のほうにもすこぶる多くいて、その勢力は実に驚くべきものがあった。至誠という事において、他の政治家や軍将に異なり、極めて真面目に国家を想うていた事だけは充分に認められる。どうでもよいというて事に当るというような事はとてもできない人で、何の仕事についても一生懸命であったのは感服に値する」[143]

後年の評価

山県は、政党政治否定、藩閥政治推進、社会運動弾圧の代表的人物として、歴史家から大きなマイナスの評価を与えられてきた[144]有馬学は明治から平成中期までになされた山県論を分析して、山県が個人的なパーソナリティーや政治姿勢およびその実像とは離れたところで、「近代日本の暗部」であり「否定されるべき存在」として「象徴化」「記号化」されて語られてきたとする。また有馬は明治末期から山県の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山県が、大正11年の死から昭和戦前期にかけて「否定の対象としても忘れ去られ」、第二次大戦後の軍国主義批判の中で批判的にとらえられ、「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山県有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けたと指摘する[145]

近年では別の視点から山県の実像に迫る分析がジョージ・アキタ(George Akita)、伊藤隆らにより試みられている。伊藤隆は山県について、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢[146]」をとり続けた政治家であり、従来の軍国主義的イメージとは異なる人物だったと評している[147][145]。また、徳富蘇峰も山県を「穏健な帝国主義者」と評している[106]




注釈

  1. ^ 蔵元仲間は足軽以下の身分(武家奉公人も参照)。
  2. ^ 大正11年に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」と揮毫している[5]
  3. ^ 総人口に占める武士の比率が高かった薩摩藩ではこのような例はなく、西郷や大久保をはじめとする志士は下級とはいえ、みな士分であった。
  4. ^ 山県は時山の死を後悔し、現場の苦戦している様子を和歌で詠み「あだ守る砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と長歎したといわれる。また後年に時山の墓を詣で、記念碑を建てる話が上がると碑文を書き、日露戦争前にも時山の死を思い出している[15][16]
  5. ^ この書状は熊本城解放後の4月17日に既に作成されていて(起草は福地源一郎とされる)、6日後の23日に西郷へ送られたが、届いたかどうか分からなかった。城山の戦い直前で山県は改めてこの書状を西郷へ送っている[39]
  6. ^ 市町村会の有権者は満20歳以上(被選挙権は満25歳以上)の男子で、市町村に2年以上住んで地租か直接国税2円以上を納めた人が公民権を獲得、それにより選挙権も認めるという仕組みだった。府県会は市町村会や郡会で選挙された議員が入る複選制で、郡会も町村会員の複選制と互選された大地主で構成されていた[61][62]
  7. ^ 第1回帝国議会での予算案審議に際し、自由党議員の一部を買収して予算案を通過させたことに対する批判の責任を取ったもの。
  8. ^ 藤村道生による、大本営の冬営論に従おうとしなかったために解任されたとの説(藤村道生 1986, p. 160-170、『日清戦争』1973年など)が従来から信じられてきた。しかし斎藤聖二が、当時としては老人とも言える年齢の山県が実際に病状を悪化させていたこと、大本営が既に冬季作戦論に転換していたことを実証して山県の召還は「健康への憂慮」と「戦略上の必要性」にあると指摘(『日清戦争の軍事戦略』2003年)しており、伊藤之雄も藤村の説には疑問を呈している(伊藤之雄 2009, p. 268-277)ほか原田敬一も「病気の軍司令官による冬季作戦はできない、という大本営の判断が山県解任の理由」とする斎藤の説を支持している(原田『日清戦争』2008年、p.187-p.192)。
  9. ^ 省庁、特に内務省の高級官僚から憲政党などの政党員を締め出した。この努力も、後に原敬によって押し戻される結果になる。
  10. ^ 実際に送られた書簡をインターネットで閲覧できる。3-1 2個師団増設問題国立国会図書館)参照。
  11. ^ 当時は軍部大臣現役武官制が施行されており、陸軍が新たな陸軍大臣を推薦しない限り内閣は総辞職をするほかなかった。
  12. ^ ただし、山県自身は倒閣までは予期していなかった。西園寺内閣の総辞職とその後の桂の大命降下には、山県により(内大臣侍従長として宮中に押し込められ、政権復帰を目指していた桂の策謀によるものが大きい(詳細は大正政変を参照)。
  13. ^ なお「平民宰相」として有名な原は、分家により士族から平民になっていたが、生家は盛岡藩の家老家の出身だった。自身が爵位を欲さなかったのは爵位を受けると衆議院議員の被選挙権がなくなることもあったが、伊藤や山県らのように元来の出自が低い新華族(勲功華族)に対する嫌悪感も大きな要因であった。

出典

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  151. ^ 枢密院議長元師陸軍大将公爵山県有朋特旨叙位ノ件、大正11年2月1日、ref:A11112998500、叙00698100(国立公文書館)。(公文書館の登録が間違って「元師」となっている。)
  152. ^ 大正11年2月3日付『官報』
  153. ^ 『官報』第307号「叙任及辞令」1884年7月8日。
  154. ^ 『官報』第2342号「彙報」1891年4月24日。
  155. ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。
  156. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  157. ^ 『官報』第5673号「授爵・叙任及辞令」1902年6月4日。
  158. ^ 『官報』第6085号・付録「辞令」1903年10月12日。
  159. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  160. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  161. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  162. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  163. ^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
  164. ^ 御署名原本・大正十一年・勅令第十八号・故議定官枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵山県有朋国葬ノ件、ref:A03021368600(国立公文書館)。
  165. ^ 『官報』号外「勅令」1922年2月3日。
  166. ^ 『官報』第2853号「故山県枢密院議長葬儀」1922年2月7日。
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  172. ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1897年5月14日。
  173. ^ 『官報』第4785号「叙任及辞令」1899年6月15日。
  174. ^ 『官報』第6828号「叙任及辞令」1906年4月7日。
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