軍内部に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。山縣が当時の権力者の地位に上り詰められた背景には、原理原則を保持しつつ妥協も許容する自身のリアリストとしての側面と、人材の発掘と育成の妙があるといえる。 明治40年(1907年)2月1日に伊藤を総裁とする帝室制度調査局が立案した公式令が公布、内容が首相の権限強化による各大臣への統制と知ると、それが軍部にも及ぼすことを恐れた山縣は伊藤と会談、両者の妥協で9月12日に軍令が公布された。これで首相の軍統制が効かなくなり、のちに軍の統帥権独立による暴走につながったが、伊藤と山縣は軍令濫用の危険性を承知しており、伊藤は会談終了後山縣に軍令の使用について警告、山縣も部下に軍令の濫用を戒めたという。
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