小笠原氏 遠江小笠原氏

小笠原氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 05:26 UTC 版)

遠江小笠原氏

府中小笠原氏の一族(小笠原長棟の兄の長高といわれる)が小笠原氏の内紛を逃れて、やがて今川氏に仕え、遠江小笠原氏(高天神小笠原氏)となったとされる。系図上はここが嫡家である。高天神城の戦いで知られる。

小笠原義頼の子供以降、江戸時代には紀州徳川家に仕えた。のち紀州藩主であった徳川吉宗が将軍に就任した際、200人ほどの紀州藩士が幕臣となった。その中には『吉宗公御一代記』で知られる小笠原政登小笠原胤次がいる。

幡豆小笠原氏

霜月騒動で戦死した伴野長泰の孫である伴野泰房は三河国太陽寺荘に逃れ、幡豆小笠原氏の祖となった。永正11年(1514年)小笠原定正が寺部城(幡豆城)を奪い居城としたとされる。海に面する城を中心に海上交易などを行っていたようであり、海賊衆として今川氏に仕えていたが、その後徳川氏に転じ、徳川家の海賊衆として三河湾や遠州の海上防衛を行っていた。当主の小笠原信元は陸上でも数々の合戦に参加している。 そのまま幕臣となり、信元や孫の小笠原信盛など、江戸幕府の船手頭として知られる。

また、家康の数々の戦闘に参加した小笠原安元安次の系統もこの幡豆小笠原氏であり、欠城は幡豆城の小笠原氏と密接に連携していたとされる。

流浪していた小笠原長時が同族の誼で一時滞在し、また、長時親子を徳川家康に取り持ったのがこの小笠原氏だとする話が残る。

徳川家康により任命された初代の長崎奉行であった小笠原一庵も、幡豆小笠原氏の一族とされる。

伴野氏は甲斐武田氏滅亡の天正壬午の乱にて一時滅びるが、伴野時長の六世孫の伴野貞元が徳川家旗本を務めた。また、八王子千人隊の甲斐志村氏志村貞盈は、伴野時直の庶流の一族で江戸時代に徳川家旗本を務めた。

「小笠原諸島」とは

信州松本城主「小笠原貞頼」なる人物が、朝鮮出兵から帰陣した後の文禄2年(1593年)、しかるべき島があったら取ってよいとの証文を徳川家康から得て伊豆国下田より出航し、小笠原諸島を発見した。家康が小笠原の名前をつけることを許し、豊臣秀吉からも安堵されたので小笠原諸島と名付けられた、との伝承がある。だが、確かな史料にはそのような事実は確認できず、発見時期にも矛盾がある上、そもそも小笠原貞頼という人物も小笠原家の系図には記されておらず、信憑性に乏しい[35][36]

なお同諸島の別称のボニン諸島(Bonin Islands)が無人(ぶにん)島の転訛語であることはわかっている[35]


注釈

  1. ^ ただし、東大史料編纂所所蔵の原蔵文書である「七条氏系図」、「七条氏家系考証」、「七条氏本支録」などの記載によると、鎌倉時代後期~南北朝時代初期あたりに、三好氏とともに分岐した同族の七条氏や高志氏がすでに、阿波に勃興しており、三好氏の先祖はその頃には阿波に入ったと述べており、三好氏の本姓は七条氏や高志氏とともに藤原氏とも久米氏とも称したという。
  2. ^ 寛政重修諸家譜』によれば弟、『尊卑分脈』では宗長(貞宗の父)の嫡男とする。
  3. ^ 旧福知山藩は現米7260石(表高2万2777石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[21]
  4. ^ 旧豊津藩は現米8万8170石(表高15万石)で現米5万石以上15万石未満の旧中藩に該当[28]
  5. ^ 旧安志藩は現米4560石(表高1万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[31]
  6. ^ 旧千束藩は現米4800石(表高1万石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[31]
  7. ^ 旧千束藩は現米2万9423石・表高6万石[31]
  8. ^ 系図の出典は不明。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k "小笠原氏". 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  2. ^ 小田部雄次 2006, p. 324/330.
  3. ^ a b "小笠原流". 日本大百科全書(ニッポニカ)、精選版 日本国語大辞典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、デジタル大辞泉、百科事典マイペディア、旺文社日本史事典 三訂版、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  4. ^ 秋山敬「小笠原牧と小笠原荘-甲斐の荘園」『甲斐路』、山梨郷土研究会、1981年。 /所収:網野善彦 編『中世 馬と日本史2』馬事文化財団〈馬の文化叢書 第三巻〉、1995年。 
  5. ^ a b 花岡 2016, 花岡康隆「信濃小笠原氏の研究の軌跡と成果」
  6. ^ 二木謙一「室町幕府弓馬故実家小笠原氏の成立」『中世武家儀礼の研究』吉川弘文館、1985年。 
  7. ^ 花岡 2016, 村石正行「足利義材政権と小笠原氏」.
  8. ^ 花岡 2016, 村石正行「小笠原長時の外交活動と同名氏族間交流」.
  9. ^ 堀田正敦編「淸和源氏 義光流」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』第1輯、國民圖書、1922年
  10. ^ 木下昌規 著「永禄の政変後の足利義栄と将軍直臣団」、天野忠幸; 片山正彦; 古野貢 ほか 編『戦国・織豊期の西国社会』日本史史料研究会〈日本史史料研究会論文集2〉、2012年。 /所収:木下昌規『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年。ISBN 978-4-87294-875-2 
  11. ^ 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390
  12. ^ 湯本軍一「守護小笠原氏の分国支配」『信濃』24巻6号、1972年。/所収:花岡 2016
  13. ^ 『11月21日付小笠原左衛門佐宛細川政国書状』
  14. ^ a b 『中津川市史』p.579-595
  15. ^ 後藤芳孝「小笠原氏の内訌をめぐって」『松本市史研究』5号、1995。/所収:花岡 2016
  16. ^ 久保田安正『伊豆木の殿さま』南信州新聞出版局、2011年、30頁頁。 
  17. ^ 久保田安正『伊豆木小笠原氏と小笠原書院』南信州新聞出版局、2005年、13頁頁。 
  18. ^ 三穂村史編纂刊行会『三穂村史』三穂村史編纂刊行会、1988、134頁頁。 
  19. ^ 下伊那教育会『下伊那史』下伊那史編纂会、1980、1028頁頁。 
  20. ^ a b 新田完三 1984, p. 729.
  21. ^ 浅見雅男 1994, p. 151.
  22. ^ a b c d e 小田部雄次 2006, p. 330.
  23. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 371.
  24. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 412.
  25. ^ HISTORY”. 小笠原伯爵邸. 2023年6月6日閲覧。
  26. ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 150.
  27. ^ 新田完三 1984, p. 586.
  28. ^ 浅見雅男 1994, p. 123.
  29. ^ a b c d e 華族大鑑刊行会 1990, p. 402.
  30. ^ a b 新田完三 1984, p. 52.
  31. ^ a b c 浅見雅男 1994, p. 153.
  32. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 410.
  33. ^ 新田完三 1984, p. 256.
  34. ^ a b c d 華族大鑑刊行会 1990, p. 167.
  35. ^ a b "小笠原諸島". 日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  36. ^ "小笠原貞頼". 朝日日本歴史人物事典、日本大百科全書(ニッポニカ)、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典、百科事典マイペディア、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2022年11月8日閲覧
  37. ^ 小田部雄次 2006, p. 346.






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