信濃小笠原氏の3家分立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:41 UTC 版)
信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康は、たびたび戦乱を起こしていた鎌倉公方への抑え役として足利義持から重用されて、応永32年(1425年)に信濃守護職に任命され、信濃国内、甲斐国、武蔵国を転戦し、庶流の跡部氏を甲斐に送り込んだ。しかし、嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で6代将軍足利義教が暗殺されると畠山持国が台頭し小笠原長将(長秀の兄)の子の小笠原持長が家督相続を主張して内乱を起こし、文安3年(1446年)に政康の子小笠原宗康を漆田原の戦いで討ち取って南下し、国府を奪い府中小笠原氏を起こした。しかし、宗康は戦死前に伊那郡伊賀良荘の松尾小笠原氏である弟の小笠原光康を後継者に定めており、府中小笠原氏に対向した。また、府中から光康の元に逃れた小笠原政秀(宗康の子)も鈴岡小笠原氏を起こし小笠原氏は3家に分裂した。
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