小田原城 歴史・沿革

小田原城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/06 20:33 UTC 版)

歴史・沿革

元は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(土肥小早川氏の祖とされる)の居館であったとされる。

鉢木物語」にて、北条時頼から佐野源左衛門に与えられたという物語がある。

応永23年(1416年上杉禅秀の乱で禅秀方であった土肥氏が失脚し、駿河国に根拠を置いていた大森氏がこれを奪って、相模国伊豆国方面に勢力を広げた。

明応4年(1495年)、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(北条早雲)が大森藤頼から奪い、旧構を大幅に拡張した。ただし、年代については明応4年(1495年)、以後に大森氏が依然として城主であったことを示すとされる古文書[3]も存在しており、実際に盛時が小田原城を奪ったのはもう少し後(遅くても文亀元年(1501年))と考えられている[4]。ただし、盛時は亡くなるまで韮山城を根拠としており、小田原城を拠点としたのは息子の伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であったとされ、その時期は氏綱が家督を継いだ永正15年(1518年)もしくは盛時が死去した翌永正16年(1519年)の後とみられている[5]。以来北条氏政北条氏直父子の時代まで戦国大名北条氏の5代にわたる居城として、南関東における政治的中心地となった。

永禄4年(1561年)、北関東において後北条氏と敵対する上杉謙信が越後から侵攻し、小田原城の戦いとなる。軍記などでは、11万3千(関八州古戦録より)ともいわれる大軍勢で小田原城を包囲。1か月にわたる篭城戦の後、上杉軍の攻撃を防ぎ切ったと伝えているが、実際は10日間ほどの包囲であったとみられる[6]

永禄11年(1568年)甲斐国の武田信玄は駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、後北条氏は甲相同盟を破棄し越後上杉氏との越相同盟を結び武田方に対抗した。信玄はこれに対して北関東の国衆と同盟し後北条領国へ圧力を加え、翌永禄12年10月1日から4日(1569年11月9日から12日)にかけて後北条領国へ侵攻し、小田原城を包囲する軍事的示威活動を行い、撤退に際して追尾した後北条勢を三増峠の戦いにおいて撃退した。後に後北条氏は武田の駿河領有を承認し甲相同盟を回復している経緯からも、この時の小田原攻めは本格的侵攻ではなく軍事的示威行為に過ぎないものであったと考えられている。

後北条氏による小田原城の改築は大きいものでは少なくても2度あったと考えられている。最初は伊勢盛時(北条早雲)が小田原城を得た直後で、ほぼ同時期に鎌倉に大被害をもたらした大地震があったと言われており(明応地震を参照のこと)、文献上の記録はないものの距離的に近い小田原も被害を受けた可能性があり、戦闘と地震による打撃を回復させるための改築が行われたと見られている(ただし、前述の通り、地震発生時の当主が大森氏であった可能性及び同氏が改築を行った可能性も否定は出来ない。また、近年研究が進み、地震に乗じて、又は、地震後の混乱に乗じて城を奪ったとする説も出ている[7])。もう1度は永禄9年(1566年)から同12年の時期に小田原城の改築に関する文書が多数発給されており、この時期に相次いだ上杉氏・武田氏の侵攻に備えたものと考えられている。また、甲相駿三国同盟の時期を除けば、小田原城の西隣に位置する駿河国駿東郡は後北条氏を含めた諸勢力による争奪が長く続いており、後北条氏の時代全体を通じて一番緊迫した国境であった駿東方面への押さえとして小田原城は重要視されており、関東地方の大半を制圧した後もその中央部に本拠地に移動させずに小田原城を本拠とした理由と考えられている[8]。なお、北条氏康の居館には会所・寝殿が備わっており、永禄元年(1558年)に小田原に入った古河公方足利義氏が氏康邸を宿舎としていたことが知られている[9]

石垣山一夜城から望む小田原城

安土桃山時代

天正18年(1590年豊臣秀吉天下統一の仕上げとして隠居北条氏政と当主氏直が指揮する北条氏と開戦し、当時北条の台頭に対抗していた関東の大名・佐竹義重宇都宮国綱らとともに数十万の大軍で小田原城を総攻撃した。小田原征伐(小田原合戦、小田原の役など)と呼ばれるこの戦いにおいて秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むとともに別働隊をもって関東各地の北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした北条氏の意図を挫き、3か月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後、秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれをもって完成した(宇都宮仕置)。


  1. ^ 小田原城の歴史【小田原城街歩きガイド】”. www.scn-net.ne.jp. 2019年12月31日閲覧。
  2. ^ a b 小田原城隣接の旧商工会館 市に寄贈の意向”. 神奈川新聞 (2022年9月14日). 2022年9月14日閲覧。
  3. ^ 明応5年(1496年)7月24日に出されたと推定されている長尾能景宛山内上杉顕定書状によれば、相模に攻め込んだ顕定の軍が大森式部少輔・式部大輔(扇谷上杉朝昌)・三浦道寸・伊勢新九郎(盛時)入道弟弥次郎らが籠る要害を落としたことが記されている。要害の具体的な名称は書かれていないものの文面全体の内容から小田原城である可能性が高く、しかも明応5年(1496年)の時点で大森氏と伊勢氏(北条氏)が共闘関係であったことが知られ、同年以前に両氏が城(小田原城)を奪い合う敵対関係になかったのは確実とみられている(佐藤博信「大森氏とその時代」『中世東国足利・北条氏の研究』岩田書院、2006年、P154-P157(原論文は『小田原市史』通史編原史・古代・中世(1998年)に所収))。
  4. ^ 佐藤博信は盛時が伊豆山権現から小田原城下の所領を没収した文亀元年(1501年)には既に盛時が小田原城を支配していたとして、城主の交替を1496年-1501年の間と推定する(前掲佐藤論文、2006年、P157-159)。
  5. ^ 前掲佐藤論文P169。
  6. ^ 『東国の戦国合戦』市村高男(吉川弘文館)P156、『関東戦国史(全)』千野原靖方(崙書房出版)P137、『北条氏康と東国の戦国世界』山口博(夢工房)P91、『武田信玄』平山優(吉川弘文館)P47
  7. ^ 「火牛の計」は津波? 小田原城奪取に新説/神奈川 カナロコ 2013年7月25日
  8. ^ 池上裕子「戦国期における相駿関係の推移と西側国境問題」(初出:『小田原市郷土文化館研究報告』27号(1991年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第二三巻 北条氏康』(戒光祥出版、2018年)ISBN 978-4-86403-285-8
  9. ^ 佐々木健策「相模府中小田原の構造」(所収:浅野晴樹・齋藤慎一 編『中世東国の世界 3後北条氏』(2008年、高志書店)ISBN 978-4-86215-042-4
  10. ^ a b 小田原写真館 小田原城天守閣再建”. 小田原市. 2018年1月22日閲覧。
  11. ^ 昭和の子供遊園地
  12. ^ 「小田原城址の 150 年 モダン・オダワラ・キャッスル 1868-2017」
  13. ^ 復興天守閣の施工は松井建設
  14. ^ 小田原で「みんなでお城をつくる会」設立-市民の手でつくる木造天守閣
  15. ^ 【平成25年終了】御用米曲輪発掘調査の新発見!(2月16日(土)見学会開催)
  16. ^ 小田原城天守閣が2015年7月から耐震工事で休館へ
  17. ^ 小田原城天守閣耐震改修等検討委員会
  18. ^ 小田原城:天守閣耐震改修、本格スタート 外壁に足場 /神奈川
  19. ^ 小田原城がリニューアル 初日入館料は熊本城修復に
  20. ^ テレ東「池の水」ついに38年ぶり小田原城の水抜き”. 株式会社スポーツニッポン新聞社. スポーツニッポン (2018年3月10日). 2018年3月10日閲覧。
  21. ^ 緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦 〜日本三大“池”だ!小田原城&善光寺&日比谷公園〜|池の水ぜんぶ抜く”. テレビ東京. 2018年4月24日閲覧。
  22. ^ 三の丸地区で「謎の堀」が二つ発見 江戸古地図に未記載 毎日新聞 2012年1月25日
  23. ^ 小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原 カナロコ 2012年1月26日
  24. ^ 史跡小田原城跡八幡山古廓・総構保存管理計画策定報告書(小田原市教育委員会、2010)、p.20






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