大国実頼 経歴

大国実頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 09:20 UTC 版)

経歴

永禄5年(1562年)、樋口兼豊の次男として誕生。上杉謙信死後の御館の乱では上杉景勝方として戦う。戦後の天正10年(1582年)、景勝の命により天神山城小国重頼の養子となって小国氏の家督を相続した。高野山の『越後国供養帳』によると、実頼は天正13年(1585年)8月18日に亡くなった義母(重頼室)の供養を依頼している。

天正14年(1586年)、新発田重家討伐戦に参加し、新潟城を焼打ちする。豊臣秀吉聚楽第新築の際には祝賀の使者を務めた。このとき、従五位下但馬守に任じられる[注 1]と共に、姓を大国と改めた。以後、頻繁に上洛し、木戸元斎と共に連歌会に多く参加した。天正19年(1591年)には連歌師里村紹巴の催す連歌会に度々参加し、実頼は『米府侍組由緒』には「能書、連歌の上手」と評されている。

文禄3年(1594年)、景勝が上洛して聚楽第を訪れた際には、太刀一振・小袖10・銀子50枚を献上した。同年の『文禄三年定納員数目録』によると、村上城主として9,041石を知行し、542人の軍役を課せられている。なお実頼自身はこの時期に伏見の上杉屋敷に滞在し、村上城に春日元忠を城代として置いていた。

大国実頼関連系図

慶長3年(1598年)、上杉景勝の会津移封に付き従い、南山城代として2万1,000石を与えられた。また同年に高野山を参詣し、清浄心院に逆修や父・兼豊の供養を依頼している。そして慶長5年(1600年)に景勝が徳川家康との戦に備えて会津に神指城を築城しようとしたとき、兄・兼続と共に普請奉行を務めて功を挙げている。同年の関ヶ原の戦い後、出羽国高畠城7,000石の城代となったが、城には移らず上洛して伏見に滞留した。
慶長9年(1604年)、兄・兼続と本多政重との養子縁組に反対したばかりか、政重を迎えるために上洛した使者(西山庄左エ門宗秀、飯田実相坊元貞)を伏見宿の旅宿に誘き出し、長刀を振るって殺害すると、そのまま出奔して高野山へ逃れた。以後、高野山に隠遁していたが、兼続の死後、密かに米沢北郊の中小松村に戻り、元和8年(1622年)に死去。享年61。また一説には慶長10年(1605年)、実頼の家臣・樋浦与兵衛が実頼の供養を依頼していることから、この頃に死去したともいわれる。


注釈

  1. ^ 「御家中諸士略系譜」(『上杉御年譜』23所収)に記載されているのみであり、景勝の清華成以前に、その家臣が諸大夫成するのは原則的としてないことなど諸説ある。
  2. ^ 政重以前に兼続の養子であった。

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