元弘の乱 概要

元弘の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 13:10 UTC 版)

概要

後醍醐天皇が倒幕を目指した理由や時期については諸説あって一定しないが、どの説を採用するにしても、元徳2年(1330年)末には具体的な倒幕計画を練っていたとされる。ところが、翌3年4月29日(1331年6月5日)に、後醍醐側近「後の三房」の一人吉田定房六波羅探題へ計画を密告して、鎌倉幕府もこれを知るところになり、長崎高貞ら追討使が派遣された。関係各所の取り調べが進む中、後醍醐天皇は8月9日(西暦9月11日)に「元弘」への改元を詔し(幕府・持明院統は認めず)、さらに同月後半に京都を脱出して、一品中務卿尊良親王と元・天台座主の尊雲法親王(後の護良親王)の二皇子と共に笠置山の戦いを起こした。武将楠木正成桜山茲俊もこれに呼応して、正成は下赤坂城の戦いを開始、茲俊は備後の地吉備津宮で挙兵した。しかし、後醍醐と尊良は間もなく捕縛され、尊雲(護良)と正成は逃げ延び、茲俊は吉備津宮に火をかけ自害して果てた。後醍醐天皇は退位を強制され、後醍醐の大覚寺統と対立する持明院統皇統両統迭立)から光厳天皇が即位し、後醍醐天皇は隠岐島へ、尊良親王は土佐国高知県)に流され、腹心日野資朝は処刑された。元弘2年/元徳4年(1332年4月10日、幕府は関係者の処分を終え、事態の終結を公式に宣言した。ここまでを特に元弘の変(げんこうのへん)と呼び、「元弘の変」は「元弘の乱」に含まれる一事件であるとする場合が多いが、両語を区別せず「元弘の変」を「元弘の乱」の同義語として扱う場合もある(名称)。元弘2年/元徳4年4月28日 (1332年5月23日)、幕府・持明院統側では「正慶」へ改元となった。

ところが同年末楠木正成と還俗した護良親王が再挙兵し、さらに翌元弘3年/正慶2年(1333年)には後醍醐天皇と尊良親王が流刑地を脱出した。楠木党の籠城戦上赤坂城の戦い千早城の戦いが長引くことで幕府御家人の厭戦感情が増し、倒幕を促す後醍醐の綸旨(天皇の命令文)と護良の令旨(皇族の命令文)が全国に出回ったこと等により、戦況は徐々に後醍醐勢力が盛り返してきた。ここに、北条得宗家と代々縁戚関係を結んできた武家の名門足利氏の当主である高氏(後の尊氏)が幕府から離反したことが大きな転機となって、鎌倉からの遠征軍と京の六波羅探題が壊滅。さらに、関東では御家人新田義貞らが倒幕に応じ、5月22日(西暦7月4日)、東勝寺合戦で、得宗の北条高時と内管領長崎高資を中心とする幕府・得宗家の本体を滅ぼした。残る九州では尊良親王や菊池武時らが戦っていたが(武時本人は3月中に戦死)、同月25日(西暦7月7日)に鎮西探題を攻略した。勝利を完全にした後醍醐天皇は、同25日に光厳天皇を廃位して元号を「元弘」に一統すると、6月5日(西暦7月17日)に京都へ凱旋し建武の新政を開始した。


注釈

  1. ^ 天皇が臣下である筈の幕府に捕らえられるという事態は、後醍醐と対立する持明院統にも衝撃を与え、花園上皇は「王家之恥何事如之哉、天下静謐尤雖可悦、一朝之恥辱又不可不歎」と書き記している[9]
  2. ^ 北条仲時自刃の際、付き従っていた武士432人が殉死している。
  3. ^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[10]
  4. ^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[10]

出典

  1. ^ a b 森 2012, 第3章 建武政権の成立と展開>1 元弘の乱>倒幕運動の新段階.
  2. ^ 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4-642-02863-3。pp. 305–320
  3. ^ 亀田 2017, pp. 18–19.
  4. ^ 呉座勇一『陰謀の日本中世史』KADOKAWA〈角川新書〉、2018年。ISBN 978-4040821221 第4章 足利尊氏は陰謀家か>第1節 打倒鎌倉幕府の陰謀。
  5. ^ 「元徳元年の〈中宮御懐妊〉」『弘安書札礼の研究』(東京大学出版会、2000年)P253-270.(初出:『金澤文庫研究』274号、1985年)
  6. ^ 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4-642-02863-3。pp. 336・338
  7. ^ 亀田 2017, pp. 19–23.
  8. ^ 『日本中世の朝廷・幕府体制』(吉川弘文館、2007年) ISBN 4-642-02863-3。pp. 336-337
  9. ^ 花園天皇宸記』元弘元年10月別記1日条。
  10. ^ a b c d 「神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺」『日本歴史地名大系』平凡社、2006年。 
  11. ^ 鈴木由美 著「【北条氏と南朝】5 鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族」、日本史史料研究会; 呉座勇一 編『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』洋泉社〈歴史新書y〉、2016年、110–128頁。ISBN 978-4800310071 . pp. 119–126.
  12. ^ a b c d e f 福田 1997.
  13. ^ 森茂暁「『博多日記』の文芸性と九州の元弘の乱」(初出:「福岡大学人文論叢」37巻4号(2006年3月)/所収:森『中世日本の政治と文化』(思文閣出版、2006年) ISBN 978-4-7842-1324-5 第三章第五節)P418)
  14. ^ a b c d 森 2012, 第3章 建武政権の成立と展開>1 元弘の乱>元弘の変.
  15. ^ 新井 2016, p. 94.
  16. ^ 生駒 2017, p. 26.
  17. ^ 日本国語大辞典』第二版「元弘の変」
  18. ^ a b c 五味 1994.
  19. ^ 森 2012, 第3章 建武政権の成立と展開>1 元弘の乱>元弘の倒幕勢力.
  20. ^ a b 亀田 2017, p. 54.






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