五流尊瀧院 概要

五流尊瀧院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/12 00:12 UTC 版)

概要

修験道の祖と言われる役小角(役行者)は文武天皇3年(699年)朝廷より訴追を受け、熊野本宮に隠れていたが伊豆大島に配流された(続日本紀)。役行者について正史が伝えることは以上であるが、伝承によれば、この際、義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社の御神体を捧持したとされる。彼らは3年にわたり各地を放浪し、役小角が赦免となった大宝元年(701年)3月、神託を得て現在の熊野神社の地に紀州熊野本宮を遷座し、5人の高弟それぞれが尊瀧院、大法院、建徳院、報恩院、伝法院の五流の寺院を建造した。中でも尊瀧院が中心寺院となった。

奈良時代に入ると皇室の熊野崇敬と相まって天皇の崇敬を受け、天平12年(740年聖武天皇が児島一円を社領として寄進した。天平宝字5年(761年)には紀州熊野と同様の社殿(十二社権現宮)を整え、付近の木見に諸興寺と新宮を、山村に由伽寺と那智宮(現・蓮台寺由加神社)を建て新熊野三山とした。

熊野神社と修験道の寺院が一体となった神仏習合の形態を取る宗教施設として栄えたが、平安時代中期以降は衰微した。

承久3年(1221年承久の乱が勃発し、三井寺長吏であった後鳥羽上皇の皇子・覚仁親王が難を逃れてこの地に下った。更に、敗れて隠岐に遠島となった後鳥羽上皇に連座して、上皇の第4皇子頼仁親王が児島に配流となった。頼仁親王は衰退していた五流の寺院と十二社権現宮を再興し、南北朝の頃まで繁栄し次第に衰微し尊瀧院のみが残った。なお、現在まで続いている当院の歴代大僧正は頼仁親王の子孫と伝えられる。南北朝時代に後醍醐天皇を奪還しようと試みた児島高徳はこの地の出身と伝えられ、境内には児島高徳社が祀られている。

現在の五流尊瀧院は倉敷市立郷内小学校北に隣接しているが、元来は400mほど北の真浄院北側にあり熊野神社と隣接していたと伝えられている。現在も三重塔、鐘楼などは熊野神社境内に接して建つ。

室町時代になり応仁の乱が勃発すると、この地も戦乱に巻き込まれた。応仁3年(1469年)には細川勝元方に加担した覚王院の円海を中心とした兵により新熊野は焼き討ちにあい、ほぼ全焼した。

明治時代になると神仏分離令により、十二社権現は熊野神社となり五流尊瀧院と分離した。明治5年(1872年)修験道の廃止に伴い天台宗寺門派に属する。太平洋戦争終結後、天台宗より独立し、修験道総本山となる。

平成15年(2003年)9月、明和5年(1768年)建造の修験者の寄宿所である長床(熊野神社拝殿)を失火により全焼。平成19年(2007年)10月に再建した。




「五流尊瀧院」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五流尊瀧院」の関連用語

五流尊瀧院のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五流尊瀧院のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの五流尊瀧院 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS