二水記 二水記の概要

二水記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/15 08:27 UTC 版)

二水記という名前は記述が始まった「永正」の元号を由来とする。二水とは永正の「永」の文字を「二」と「水」に分解したもので、永正の「正」の字を同じく「一」と「止」に分解し「一止記」という別名で呼ばれることもある。その他、「烏兎私記」、「一暦記」、「一水記」などの別名を持つが、二水記の名が一般的に通用している。[2]

隆康の生きた戦国時代初期は、応仁の乱における京都の荒廃や下剋上の風潮により、没落する公家が多く、隆康もまたそうであった。二水記は、没落してゆく公家の悲哀を知る史料として重宝されている。

朝廷の行事、皇族の日常、室町幕府の動向や朝幕の交渉などが記述されており、更に巷の風聞などにも言及している。筆者の鷲尾隆康は有職故実に精通しており、それに関連する情報が豊富に含まれている他、遊芸にも堪能であったため、連歌蹴鞠囲碁貝合わせなどに関する記事も多い。

隆康の死後、鷲尾家は断絶してしまったが、日記は隆康の実兄四辻公音が所有して保存され、慶長4年(1601年)に後陽成天皇の勅命によって書写が行われ、写本が出来た。そして四辻季満が鷲尾の名跡を継いで鷲尾隆尚と改名し、日記も鷲尾家に戻った。後陽成天皇の命で書写された写本そのものは寛文元年(1661年)の内裏火災で焼失してしまったが、承応元年(1652年)に東園基賢に、明暦元年(1655年)から万治元年(1658年)にかけて後西天皇を中心に複写が行われていた為、完全に消失することはなかった。

原本はその後油小路家に伝来したようである。広橋兼勝の子が鷲尾家と四辻家の両家に養子として入っており、それと何らかの関係があったと指摘されている。[3]しばらく油小路家にあった原本だが、文化14年(1817年)鷲尾家に戻された。明治年間になり、猪野中行、頴川良辰の手を経て、内閣文庫が購入し、現在に至る。

最初の内は天候、日付、その年の干支を必ず付記していたが、年を追うごとに日付、天候の付記は簡略化されてゆく傾向にある。

参考文献


  1. ^ 大日本古記録「二水記」4巻付属解題。
  2. ^ 国史大辞典、日本史大辞典、ブリタニカ百科事典、世界大百科事典、大日本古記録他。
  3. ^ 大日本古記録「二水記」解題。


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