朝倉家の栄華を築く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 17:15 UTC 版)
永正14年(1517年)、若狭守護・武田氏の援軍として幕命で若狭・丹後に出陣。若狭逸見氏と丹後守護代・延永氏の反乱を鎮圧する(『東寺過去帳』『御内書案』『宣胤日記』)。 大永5年(1525年)、美濃の内乱に介入した浅井亮政を牽制するため、六角氏と協力し小谷城へ出張る。しかも、5ヶ月に亘って小谷城の一角に「金吾嶽」を増築、在陣し、六角氏と浅井氏の調停役を務めた。このとき教景は亮政をよく助けたため(『朝倉宗滴話記』『朽木文書』『二水記』『西福寺文書』『当国御陳之次第』)、以後は朝倉・浅井家は固い絆で結ばれていくことになった。 大永7年(1527年)、近江に逃れていた12代将軍・足利義晴と管領・細川高国の要請で上洛し、三好勢らとの諸戦で勝利をおさめた(川勝寺口の戦い)。 大永8年(1528年)、京都から撤退(高国との対立が原因とされる)したため、孤立した高国は流浪の身となった。だが、これら宗滴の活躍により、朝倉氏の地位を磐石なものとするとともに、中央での発言力も確固たるものとした。 大永7年(1527年)に宗滴は養子の朝倉景紀に敦賀郡司の職を譲っているが、軍奉行は引き続き務めた。
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