三国時代 (中国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 03:45 UTC 版)
三国時代の政治
三国の各政権において行政のトップに就いた者については
魏の政治
196年、魏の基礎を作った曹操は棗祗・韓浩らの提言を採用し、屯田制を開始している。屯田とは、戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。屯田制は当初は難航したが、次第に任峻らの尽力などにより軌道に乗った。官渡の戦いの時点では曹操軍は兵糧の確保に難航している。屯田制により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来た。魏の初代皇帝の曹丕で冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。
曹操は降伏させた烏桓族を中国の内地に住まわせ、烏桓の兵士を軍隊に加入させた。曹操軍の烏桓の騎兵はその名を大いに轟かせた。
曹操は勢力圏の境界付近に住む住民や氐族を勢力圏のより内側に住まわせた。これは戦争時にこれらの人々が敵に呼応したりしないようにするためであり、敵に戦争で負けて領地を奪われても住民を奪われないようにする為である。三国時代は相次ぐ戦乱などにより戸籍人口が激減しており、労働者は非常に貴重だった。
郷挙里選の科目の一つの孝廉には儒教知識人が主に推挙されたが、曹操勢力の幹部である荀彧・荀攸・賈詡・董昭・鍾繇・華歆・王朗らが孝廉に推挙されている。曹操自身も孝廉に推挙されている。川勝義雄は「荀彧の主導で、曹操の元に多くの名士(主に儒教的知識人)が集まり、やがて名士は武将を抑えて曹操政権内で大きな権力を持った。魏公国が出来た後は、政府の(文官系の)重要官職は名士によって占められた」としている[10]。
220年、魏の皇帝の曹丕は、陳羣の意見を採用し、九品官人法という官吏登用法を始めた(従来の官吏登用法は郷挙里選が有名)。九品官人法では官僚の役職を最高一品官から最低九品官までの9等の官品に分類する。また、郡の中正官が官僚候補を評価して、一品から九品までの郷品に分類する。この郷品を元に官僚への推薦が行われ、新人官僚は最初は郷品の四品下の役職に就く。例えば郷品が二品ならば六品官が官僚としての出発点(起家官と呼ばれる)となる。その後、順調に出世していけば最終的には郷品と同じ官品まで出世し、それ以上の官品へは通常は上れない。司馬懿が魏の実権を握ると、中正官の上に、郡よりも広い地域を管轄する州大中正を導入した。魏から司馬氏の西晋へ移行したころから、郷品は本人の才能より親の郷品が大きく影響するようになり、郷品の世襲が始まり、貴族層が形成されるようになった。
曹丕は後漢における宦官の弊害を教訓とし、宦官が一定以上の官職に就けないようにした。また、外戚や皇帝の親族の弊害も考慮し皇后の政治参加を禁止するなどして一族に大権を持たせることをほとんどしなかったが、その結果司馬氏の権力に対抗できる者が居なくなり滅亡の一因となった。
蜀の政治
蜀(蜀漢)の初代皇帝になる劉備は、諸葛亮らに蜀の法律である蜀科を制定させ、法制度を充実させた。蜀科は厳しい内容であったが、公平であったと言われている。
劉備は劉巴の提案に従い、五銖銭100枚の価値の貨幣を作り、貨幣制度を整備した。
益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を図り塩府校尉(司塩校尉)を設置し、塩と鉄の専売により国庫の収入を大幅に増加させた。王連は司塩校尉として多大な功績を挙げた。また、殖産興業に努め、絹(錦)の生産奨励と魏呉への輸出が行われた。
諸葛亮が益州南部の雍闓・高定らの反乱を平定した後、異民族の多い益州南部に租税を課した。
蜀漢は後漢の後継王朝という名目で成立したため、官制のほとんどは後漢に倣っていた[注釈 2]。そのため宦官の専横を防ぐことができず衰退の一因となった。
呉の政治
呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。
揚州の非漢民族である山越は反逆し続け、何度も反乱を起こしてきた。呉は山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。諸葛恪や陸遜や賀斉らが山越討伐で多大な功績を挙げている。
魏の鄧艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。
川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている[10]。
注釈
出典
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝「孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言須得涼州、當以荊州相與權忿之、乃遣呂蒙、襲奪長沙、零陵、桂陽三郡」
- ^ 『晋書』「帝紀第八」。
- ^ 『晋書』「帝紀第九」。
- ^ 『晋書』「帝紀第十」。
- ^ a b 『宋書』「本紀第六」。
- ^ 『宋書』「本紀第三」。
- ^ 『宋書』「本紀第九」。
- ^ 『南史』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『南斉書』には記述無し。
- ^ 『三国志』「蜀書四」。
- ^ a b 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)
- ^ 《中國古代兵器論叢》,123頁
- ^ 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-88
- ^ 『晋書』「地理志」に「1067万7960戸 5648万6856人」とある。
- ^ 『晋書』「地理志」に呉の赤烏5年(242年)のときに53万2千戸 240万人、『通典』「食貨七」に魏の景元4年(263年)のときに66万3423戸 443万2881人、同書に蜀の炎興元年(263年)のときに28万戸 94万人とある。ただし『晋書』「地理志」や『通典』「食貨七」によると、晋の太康元年(280年)には245万8969戸 1616万3863人にまで戸籍上の人口が回復している。
- ^ 藤家礼之輔『漢三国両晋南朝の田制と税制』(東海大学出版会)pp.148-152。なお、藤家は咸熙元年(264年)に屯田民を統括していた典農官が廃止され(『三国志』魏志陳留王紀)、泰始2年(266年)に各地で農官が廃止されて郡県が設置された(『晋書』武帝紀、なお地理志より同年に8郡が新設されたことが知られる)際に数十万戸から百万戸近い屯田民は戸籍に編入されたことが、魏末期から晋の太康年間にかけての戸数回復の主な要因とする。
- ^ “三国人口辨析 _ 中国经济史论坛” (中国語). 2023年11月4日閲覧。
- ^ 『三国志』 魏書十六 「今大魏奄有十州之地,而承丧乱之弊,计其户口不如往昔一州之民」
- ^ 『漢書』「地理志」に「1223万3062戸 5959万4978人」とある。ただし『後漢書』「郡国志」内での『帝王世紀』の引用では同年「1323万3612戸 5919万4978人」との記載がある。
- ^ 『後漢書』「郡国志」の注に「427万9634戸 2100万7820人」とある。
- 三国時代 (中国)のページへのリンク