三国時代 (中国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/11 03:45 UTC 版)
後世への影響
人口減少
この時代およびその前後の混乱によって中国大陸の人口の激減したとする説がある[12]。
当時の記録を見る限りでは、黄巾の乱から続く一連の戦乱、天災や疫病などにより、農民が流民化し、当時の中国における戸籍人口はその数を大きく減らしたとされる。例えば、後漢末の桓帝の永寿3年(157年)に5648万[13]と記録された人口が、三国時代には818万人の半ばになっており、およそ7分の1になるまでの減少である[14]。
ただし戸籍上の人口が減った理由として、虐殺や飢餓などにより人口自体が大量死亡したわけではなく、戦乱を避けるため土地を放棄した流民が豪族の私民になり戸籍システムから外れたことや、屯田制の拡大により屯田民が増加し、その屯田民が地方官ではなく典農官の管轄であったため郡県の人口統計に上がらなかったことなど、社会状況の変化による統計漏れが頻発したためとする学説が主流となりつつある[15][16](もっとも、前近代において村里レベルまでの人口調査を実施できたのは中国の統一王朝や奈良時代の日本など高度な中央集権を成し遂げたごく一握りの政体しかいない)。
また、地理志などの公式統計以外にも、三国から西晋にかけて各国の政府高官らの発言記録(例えば魏の明帝期に散騎黄門侍郎の杜恕が「魏は今や10州の土地を領しているが、戦乱の疲弊により、戸口を計れば昔の1州にも満たない[17]」という内容の上書を行っている)にも急激な統計人口減少を言及したと見られるものがある(ただし、「10州が昔の1州にも満たない」を単に戸数の大幅な減少に対する誇張表現とする説もある)。
ちなみに、前漢末に発生した王莽の混乱前における人口数は平帝の元始2年(2年)において5959万余[18]であり、王莽の混乱とその平定後、後漢に入った建武中元2年(57年)は2100万程度[19]で半分以下まで激減、その後持ち直し後漢末にようやく前漢末の水準より少し少ない程度に戻っている。
注釈
出典
- ^ 『三国志』蜀書 先主伝「孫權以先主已得益州、使、使報、欲得荊州。先主言須得涼州、當以荊州相與權忿之、乃遣呂蒙、襲奪長沙、零陵、桂陽三郡」
- ^ 『晋書』「帝紀第八」。
- ^ 『晋書』「帝紀第九」。
- ^ 『晋書』「帝紀第十」。
- ^ a b 『宋書』「本紀第六」。
- ^ 『宋書』「本紀第三」。
- ^ 『宋書』「本紀第九」。
- ^ 『南史』「斉本紀上第四」。ただし、陳留は前年4月に蕭道成の封地となったという記述もある。また、『南斉書』には記述無し。
- ^ 『三国志』「蜀書四」。
- ^ a b 川勝義雄著『魏晋南北朝』(講談社学術文庫)
- ^ 《中國古代兵器論叢》,123頁
- ^ 橋本萬太郎編『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(山川出版社)pp.86-88
- ^ 『晋書』「地理志」に「1067万7960戸 5648万6856人」とある。
- ^ 『晋書』「地理志」に呉の赤烏5年(242年)のときに53万2千戸 240万人、『通典』「食貨七」に魏の景元4年(263年)のときに66万3423戸 443万2881人、同書に蜀の炎興元年(263年)のときに28万戸 94万人とある。ただし『晋書』「地理志」や『通典』「食貨七」によると、晋の太康元年(280年)には245万8969戸 1616万3863人にまで戸籍上の人口が回復している。
- ^ 藤家礼之輔『漢三国両晋南朝の田制と税制』(東海大学出版会)pp.148-152。なお、藤家は咸熙元年(264年)に屯田民を統括していた典農官が廃止され(『三国志』魏志陳留王紀)、泰始2年(266年)に各地で農官が廃止されて郡県が設置された(『晋書』武帝紀、なお地理志より同年に8郡が新設されたことが知られる)際に数十万戸から百万戸近い屯田民は戸籍に編入されたことが、魏末期から晋の太康年間にかけての戸数回復の主な要因とする。
- ^ “三国人口辨析 _ 中国经济史论坛” (中国語). 2023年11月4日閲覧。
- ^ 『三国志』 魏書十六 「今大魏奄有十州之地,而承丧乱之弊,计其户口不如往昔一州之民」
- ^ 『漢書』「地理志」に「1223万3062戸 5959万4978人」とある。ただし『後漢書』「郡国志」内での『帝王世紀』の引用では同年「1323万3612戸 5919万4978人」との記載がある。
- ^ 『後漢書』「郡国志」の注に「427万9634戸 2100万7820人」とある。
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