一宮房治郎 一宮房治郎の概要

一宮房治郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 02:37 UTC 版)

一宮房治郎

経歴

大分県速見郡豊岡町(現在の日出町)出身。1904年(明治37年)、東亜同文書院を卒業。北京で順天時報記者・大阪朝日新聞通信員を務めた後、奉天で盛京時報を創設し、主幹・主筆を務めた。その後は内地に戻り、大阪朝日新聞記者を務めた。

1917年(大正6年)、第13回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は7回を数えた。その間、高橋内閣山本達雄農林大臣の秘書官[1]を、濱口内閣内務参与官を、第1次近衛内閣海軍政務次官を務めた。

その他に東亜同文会理事も務めた[2]

栄典

著書

  • 『赤露より帰りて』(大谷日日新聞社、1925年)
  • 『大東亜海戦論』(昭和刊行会、1943年)

脚注

参考文献

  • 『衆議院要覧(乙) 昭和十七年十一月』衆議院事務局、1943年。 
  • 中外商業新報編輯局『政治家群像』千倉書房、1932年。 



  1. ^ 『政治家群像』p.93-97
  2. ^ 『衆議院要覧』
  3. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。


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