ヴィクトル・スタルヒン 特筆

ヴィクトル・スタルヒン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/22 01:31 UTC 版)

特筆

人物

スタルヒン像(旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)

流暢な日本語を喋り、義理人情も重んじて「日本人より日本人らしい」と言われていたが、「外人」や「亡命者」というレッテルで仲間も決して一線を越えてくれないことに悩んでいたという。そのため白系ロシア人の集まる御茶ノ水の「ニコライ堂」に通い詰めて友達を探し、花嫁まで見つけた[5]

一晩でビール大瓶を24本以上も飲める酒豪であった[38]

家族

  • 父親のコンスタンチン(Константин Старухин/Konstantin [注 6] Starukhin)はロシアのニジニ・タギルに生まれ、陸軍士官学校を経てロシア帝国軍将校となったが、ロシア革命勃発により軍職を失い、一時、アレクサンドル・ケレンスキーロシア臨時政府に対抗する白軍に加わったのち、シベリアに逃れ、ハルピンの難民収容所を経て妻子とともに日本に亡命した[39][40][41]。亡命後は北海道旭川市で毛織物の行商とミルクホールを営み、妻はパン焼きで家計を助けた[39][40][42]。1932年に息子が甲陽学院野球部に招かれた際には一家で兵庫県神戸市に転居し、学院側の援助でパン屋を経営したが、同県他校の抗議により移籍話が流れたため旭川に戻った[39][43]。神戸で知り合った亡命ロシア人のマリアと懇ろとなり、マリアをウエイトレスに旭川で喫茶店バイカルを開いたが、マリアの心変わりから、1933年に彼女の自宅に押し入り刺殺した[39]。当初嫉妬からの殺害を認めていたが、のちにマリアがスパイであったための殺害と供述を変えるも、懲役8年の刑が下った[39]。1938年に釈放され、息子の活躍を見届け、1943年に東京で没した[39]。妻のエウドキア(Евдокия/Evdokia)とともに多磨霊園に眠る[31]
  • 前妻レーナ(Lena)は同じ亡命ロシア移民の美容師で、ニコライ堂で出会って1938年に結婚、1941年に長男ジョージ[注 7]を出産したが、1944年の野球シーズン終了後、特高警察から軽井沢への疎開を促され[40]、他の外国人らとともに抑留生活を強いられ、戦後も胸を患った夫の看病や家計悪化により不仲となった[39]。かつてのロシア移民仲間で戦前に日本を離れて渡米し、戦後進駐軍の通訳として再来日していた占領軍将校アレクサンダー(Alexander Boloviyov)と恋仲になり、1948年に夫と離婚し、息子を置いてアレクサンダーと米国に渡った[39][31]。アレクサンダーは少年時代に旭川市営球場で、小樽商業の内野手として、スタルヒンの旭川中学と対戦したこともあった[44]
  • 後妻の高橋久仁恵は日露混血でロシア名はターニャといい、秋田県立秋田高等女学校日本女子大学卒業後、1948年に東京のロシアン・クラブでスタルヒンと出会い、1950年に結婚[39][40][31]。長女、次女を儲け、夫と前妻の子である長男も育てながら、鬱病と過剰飲酒に苦しむ夫に代わって、1956年からはスタルヒンが1948年に開店した青山の美容院で働き家計を助け、薬局やロシア料理店「レカ」も経営した[39][45]。のちに青山の都市計画により多額の立ち退き料を取得したが、夫没後10年でできた年下の恋人がこの金と3店舗の経営権を抵当に借りた金でゴルフ場開発に手を染め、その失敗により全財産を失い、恋人と別れて西武百貨店などで働き始めたが、酒量が増えて肝臓を病み、1971年に自宅マンションから飛び降り49歳で死去した[45][46]。夫とともに眠る秋田県横手市雄物川町の崇念寺は実家で、弟の高橋大我が12代目住職を務める[40]。先代住職で父親の高橋義雄(1887年生)は、名古屋浄土真宗の中学を中退後、内妻と子を連れて1910年に大陸に渡り、モスクワ滞在中にロシア革命に遭遇、妻子が帰国したのち、ロシア女性と結婚しハルピンで久仁恵を儲け、妻子とともに1919年に帰国、のちに通訳として秋田歩兵第十七連隊のシベリア出兵に同行、亡命ロシア人を集めた「ヴォルガ演芸団」の団長も務めたという人物で、その足跡は『ユーラシアを駆けた男』(秋田魁新報社、1994年)として上梓された[47][48]
  • 長男のジョージ・スタルヒン(1941年 - )は父と一緒にたびたび雑誌やテレビに出演していたが、父の死後、テレビ・ラジオタレントとして活動[49]。1960年にはテレビドラマ『地球は引受けた』(日本テレビ系)で俳優デビューし、アメリカからの留学生・ワインクラーを演じた[50]
  • 長女のナターシャ・スタルヒン(1951年 - )は日本航空客室乗務員を経て、同僚と結婚、日本初の日焼けサロンを創業。のちにホリスティック栄養士として、各地での講演会や、健康をテーマにしたテレビ番組の出演等の活動をしている。2008年7月15日の巨人対中日戦では父と同じ背番号17のユニフォームに身を包んで、また2016年6月7日日本ハム広島戦でも『スタルヒン生誕100周年記念試合』として日本ハムのユニフォームに身を包んで[51](ともに旭川スタルヒン球場)、それぞれ始球式を務めた。一般社団法人日本ホリスティックニュートリション協会を設立し、理事長就任[52]。『白球に栄光と夢をのせて わが父V.スタルヒン物語』のほか、ダイエット関連の著書がある。
  • 女優の田中真理は、スタルヒンの妻となった高橋ターニャ(久仁恵)のめい(弟の子)にあたる。
  • エレクトーン奏者の高橋レナ(本名ひさゑ)、久仁恵の妹[53][54]

1939年の勝利数について

1955年。通算300勝達成記念に撮影された写真

1939年の勝利数は42勝であるが、戦後パ・リーグ記録部長の山内以九士らが戦前のスコアブックの見直しを行った際に、明らかにスタルヒンに勝利が付かないケースとなる2試合(5月9日:対名古屋戦、7月15日:対セネタース戦)があった。いずれも中尾輝三が先発し、5イニング以上投げて巨人がリードした状態で退いた後をスタルヒンがリリーフして最後まで投げ、そのままリードを守りきって巨人が勝った試合である。これらについて記録の変更を行い、40勝とされた。戦前は勝利投手の認定に曖昧な部分があり、記録員の主観で判断されていた側面があったためである。実際に当時の公式記録員であった広瀬謙三は「救援投手に重きを置いて(勝利投手、敗戦投手の記録を)つけた記憶がある」と証言している。

しかし、スタルヒン没後の1961年稲尾和久がシーズン最多勝利でこのスタルヒンの記録を破る42勝を記録したことから、戦前のスコアの修正について再び議論が起き、最終的には1962年3月30日にコミッショナー裁定が出され「あとから見ておかしなものであっても、当時の公式記録員の判断は尊重されるべき」という理由でもとの42勝に戻された。その結果、稲尾の記録はスタルヒンと並ぶタイ記録となった[55]

なお、42勝のうち4勝は自らのサヨナラ安打によるものである。このシーズン4サヨナラ安打は1969年東映フライヤーズ大杉勝男が更新するまで30年にわたってプロ野球記録だった。11月9日、巨人が優勝を決めた試合もスタルヒンのサヨナラヒットでの勝利だった。


注釈

  1. ^ これはのちにも外交史料館に残されている当時の取り調べ記録に、「母トトモニ一般ヨリ同情ヲ受ケ居レリ」と記載されている。
  2. ^ 鈴木以外は移籍経験があるが、金田・米田・別所は300勝まで同一チーム(ただし別所は100勝到達前に移籍)、小山は200勝目と300勝目が同一チームだった
  3. ^ なお、1941年は戦前に日本ゼネラル・モータースが操業していた最後の年であるが、同社の日本におけるノックダウン生産は1939年にはほぼ停止していたため、スタルヒンのシボレーは大東亜戦争開戦前夜に輸入された車両であるとみられる。
  4. ^ 1969年廃止。現在の東急バス「三宿」停留所に相当。
  5. ^ 日本初の野球場への個人名使用。『野球がパスポートだった〜ヴィクトル・スタルヒン』
  6. ^ 父親の父称(名と姓の間に置かれる。男性の場合は「父親の名+ヴィチ」で作る)は、この欄にはローマ字で Fedrovich(フョードロヴィチ、正しくは Fedorovich または Fyodorovich ←Фёдорович)と書かれていたが、Wikipedia ロシア語版「ヴィクトル・スタルヒン」Виктор Старухинでは「フェドートヴィチ」(Федотович/Fedotovich)と書かれている(2021年6月2日現在)。「ノート」参照。
  7. ^ 英語式表記ではジョージ(George)だが、ロシア語式表記ではゲオルギー(Георгий)となる。
  8. ^ 勝率1位はスタルヒンの.833(15勝3敗)だったが、最高勝率のタイトルは.789(30勝8敗)の森弘太郎が獲得。

出典

  1. ^ プロ野球在籍者名簿 す NPB.jp
  2. ^ a b c 『プロ野球を創った名選手・異色選手400人』16頁
  3. ^ a b 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』195頁
  4. ^ a b NHK「こだわり人物伝
  5. ^ a b c d ナターシャ・スタルヒン著「ロシアから来たエース」(PHP文庫)
  6. ^ 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文藝春秋、1994年)
  7. ^ a b c 日本プロ野球偉人伝vol1 スタルヒン ベースボールマガジン社 2013年10月
  8. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』109頁
  9. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』110頁
  10. ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.12
  11. ^ 『プロ野球データブック'84』(宇佐美徹也著、講談社文庫、1984年)p.421
  12. ^ 『プロ野球記録大鑑』823頁
  13. ^ 『宇佐美徹也の記録 巨人軍65年』30頁
  14. ^ a b 『プロ野球 騒動その舞台裏』296頁
  15. ^ 『戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯』21頁
  16. ^ 『戦火に消えた幻のエース―巨人軍・広瀬習一の生涯』166頁
  17. ^ 『球団消滅―幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』115頁
  18. ^ 『プロ野球記録大鑑』486頁
  19. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』72頁
  20. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』91頁
  21. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』118頁
  22. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』117頁
  23. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』147頁
  24. ^ 『豪球列伝-プロ野球不滅のヒーローたち』111頁
  25. ^ 【1月12日】1957年(昭32) 初の300勝投手スタルヒン、ナゾの交通事故 - スポニチ
  26. ^ a b 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』173頁
  27. ^ 【1月12日】1957年(昭32) 初の300勝投手スタルヒン、ナゾの交通事故 - スポニチ
  28. ^ 大投手スタルヒン、交通事故死【1957年1月12日】 - 野球 - 週刊ベースボールONLINE
  29. ^ 1941 Chevrolet Special Deluxe - StartingGrid
  30. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』172頁
  31. ^ a b c d ヴィクトル・スタルヒン 歴史が眠る多磨霊園
  32. ^ 一般社団法人 横手市観光推進機構 「ヴィクトル・スタルヒンの墓」
  33. ^ 野茂氏と同じく殿堂“一発合格”スタルヒン氏の壮絶野球人生 - スポニチ
  34. ^ 『巨人軍の男たち』23頁
  35. ^ 日本プロ野球偉人伝1934~40編
  36. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』110-111頁
  37. ^ 『プロ野球記録大鑑』615頁
  38. ^ 『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』116頁
  39. ^ a b c d e f g h i j Victor Starffin Peter C Bjarkman, Society for American Baseball Research
  40. ^ a b c d e プレミアムカフェ選 プレミアム8 「野球がパスポートだった〜ヴィクトル・スタルヒン」 NHKアーカイブス
  41. ^ 巨人軍孤高のエース、ヴィクトル・スタルヒン投手。謎の死など波乱万丈な生涯が切ない 小学館、Warakuweb、2020.07.07
  42. ^ 『巨人軍を憎んだ男 V・スタルヒンと日本野球』(牛島秀彦著、福武文庫、1991年)p21
  43. ^ 母校野球部に半生を捧げる 甲陽学院同窓会、『甲陽だより』第66号、平成14年7月31日、p11
  44. ^ 『巨人軍を憎んだ男 V・スタルヒンと日本野球』(牛島秀彦著、福武文庫、1991年)p202
  45. ^ a b 『巨人軍を憎んだ男 V・スタルヒンと日本野球』(牛島秀彦著、福武文庫、1991年)p226
  46. ^ きっかけは「スタルヒン」 北海道と秋田で育つ新たな絆 朝日新聞、2017年9月3日
  47. ^ 郷土図書室  本のちょっと ホットアイあきた(通巻392号) 1995年(平成7年) 3月1日
  48. ^ 文学者から見た東北文化 高橋義雄の足跡西木正明東北電力みちのくホームページライブラリー、1997年3月
  49. ^ マガジンハウス; 平凡出版株式会社; 凡人社 (東京都京橋区) (1960-09). 平凡. 東京: マガジンハウス. https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000146305-00 
  50. ^ 地球は引きうけた - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2021年7月31日閲覧。
  51. ^ “スタルヒン長女ナターシャさんが始球式 生誕100周年”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2016年6月8日). https://mainichi.jp/articles/20160608/k00/00m/050/073000c 2016年6月18日閲覧。 
  52. ^ 理事長あいさつ 一般社団法人 日本ホリスティックニュートリション協会
  53. ^ 高橋レナ音楽事務所 高橋レナさん 雄物川町出身 あきた(通巻212号) 1980年(昭和55年) 1月1日
  54. ^ 『日本のなかのロシア ロシア文化と交流史跡を訪ねる』長塚英雄、東洋書店、2005、p53
  55. ^ 『プロ野球記録大鑑』815頁
  56. ^ a b 『プロ野球記録大鑑』825頁
  57. ^ https://npb.jp/bis/history/ssp_w.html
  58. ^ 『プロ野球記録大鑑』809頁
  59. ^ 『プロ野球記録大鑑』773頁
  60. ^ 『プロ野球記録大鑑』757頁
  61. ^ a b 『プロ野球記録大鑑』838頁
  62. ^ 『プロ野球記録大鑑』813頁
  63. ^ https://npb.jp/history/alltime/milestones_win_100.html
  64. ^ https://npb.jp/history/alltime/milestones_win_200.html
  65. ^ 凍れる瞳(読み)シバレルヒトミ コトバンク
  66. ^ プレミアムカフェ』(NHK BSプレミアム)2016年5月2日放送分にて、郭源治出演『きょうの料理』と併せて再放送。






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