ムーミン (アニメ) ムーミン (アニメ)の概要

ムーミン (アニメ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 16:31 UTC 版)

ムーミン
ジャンル コメディファンタジー
アニメ:1969年版
原作 トーベ・ヤンソン
監督 大隅正秋(演出、第1話 - 第26話)
りんたろう(チーフディレクター、第27話 - )
アニメーション制作 Aプロダクション(第1話 - 第26話)
虫プロダクション(第27話 - )
製作 フジテレビ
東京ムービー(第1話 - 第26話)
虫プロダクション(第27話 - )
放送局 フジテレビ系列
放送期間 1969年10月5日 - 1970年12月27日
話数 全65話
アニメ:1972年版
原作 トーベ・ヤンソン
監督 りんたろう(チーフディレクター)
アニメーション制作 虫プロダクション
製作 フジテレビ、虫プロダクション
放送局 フジテレビ系列
放送期間 1972年1月9日 - 12月31日
話数 全52話
ムーミン
ムーミンパパ
ムーミンママ
ノンノン
ミイ
スニフ
スナフキン
岸田今日子
高木均
高村章子
武藤礼子
堀絢子
富田耕生
西本裕行
テンプレート - ノート

概要

本シリーズは、フジテレビ系列カルピスまんが劇場[注釈 1]』(毎週日曜19:30 - 20:00(JST)にて、以下の2度にわたって制作・放送された。

  1. 1969年10月5日 - 1970年12月27日まで全65話が放送された、東京ムービー虫プロダクション制作のもの。旧ムーミンと呼称される。
  2. 1972年1月9日 - 12月31日まで全52話が放送された、虫プロダクション制作のもの。新ムーミンと呼称される。

この他にも、シリーズ全体をまとめて『昭和ムーミン』や、初期のキャラクターデザインを担当した大塚康生の名前をとって『大塚ムーミン』と呼称する場合もある他、後年制作された『楽しいムーミン一家』を新作として、本シリーズの2作品をそれぞれ旧作の前期版・後期版と位置づけることもある。

以下、本項目では便宜上1.を1969年版、2.を1972年版と呼称する。

2024年現在、ソフト化や配信・放送が一切行われておらず、視聴が困難になっている(後述)。

制作

最初の1969年版は、もともと『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』(1971年 - 1972年)の準備にあたっていた、東京ムービーのスタッフチームによって企画・制作されたもので、同作品の制作が決定するまでの期間内に、2クールのみの約束で企画された[2]

演出を担当した大隅正秋によると、制作の際には『ムーミン・コミックス』を参考にしており、アニメ化に伴うアレンジも、そのコミックス以上にならないことを意識しているという[3]

声優の配役については、過去に「岸田今日子がムーミンの原作を読んだ」という新聞のコラムを見たことを覚えていた大隅が、岸田をムーミンのイメージ配役として企画に出したところ、広告代理店が飛びつき岸田に決定。あとは岸田と演技のバランスをとるため、それまで声優活動を行っていなかったムーミンパパ役の高木均をはじめ、知名度より実力のある役者が起用された[4]

雪室俊一によれば、スナフキンなど原作にない独特のキャラクターの性格は、脚本の山崎忠昭の考案によるものであるという[5]。スノークのキャラクター作りには、広川太一郎のアドリブが貢献した[4]。本シリーズ独自の設定であるスノークのお嬢さんの「ノンノン」という名は、音響監督の田代敦巳が大隅の妻の愛称「ノンちゃん」を基に決めたものである[6]

本シリーズは、日本国外の児童文学を原作としたという点で、日本のテレビアニメでは嚆矢とも言える作品だった[7]。当時東映動画にいた高畑勲は、Aプロダクションに所属して本シリーズのキャラクターデザインを担当した大塚康生およびAプロダクション社長の楠部大吉郎から勧誘されて、『長くつ下のピッピ』制作のためにAプロダクションに宮崎駿小田部洋一を誘って、共に移籍するが、『ムーミン』にテレビアニメの可能性を感じていたことを後年理由の一つに挙げている[8]

東京ムービーの降板

制作・放送が開始され、企画のズイヨーと東京ムービーのスタッフたちは、第7話「さよならガオガオ」を原作者のトーベ・ヤンソンに見てもらうことに決定。トーベから「大変気に入りました」とお墨付きをもらえるものと期待していたが[9]、帰ってきたのは「これは私のムーミンではありません」など、本シリーズに対する否定的な見解、それに後述するような要望を書き連ねた手紙であった[10]。東京ムービーはこのトーベの手紙の内容をクレームと公表し、第26話を最後に制作を終了。前述の通り、『ルパン三世』制作までの繋ぎとして受注していた都合上、以降の制作継続が物理的に不可能であったため、番組を続ける意向であったズイヨー、それにスポンサーやテレビ局への言い訳として、クレームによる撤退としたのであった[2]

本来、東京ムービーの幹部は安い制作費で作るために、別番組の枠と抱き合わせでアニメ化の権利を入札した。だが東京ムービーのスタッフはトーベの要望に応えてよい作品を作ろうとし、結果として構成セルの枚数が増え、制作費用が非常に高くついてしまった。このような経緯から、赤字番組となった『ムーミン』を切り捨てたがっていた東京ムービーは、トーベの要望と元々2クールの契約だったことを利用、『ルパン三世』の制作のために急遽制作を終了してしまう。社長に呼び出されたムーミン担当の所属アニメーター達は、打ち切りを知らされると同時に怒られ、がっかりした反面ほっとしたという。一方、この日は制作担当責任者の藤岡が出張でおらず、番組を続けたいと思っていた藤岡は翌日に打ち切りを聞いて憤慨した。しかし社長がもう決めてしまっていたため、後の祭りだったそうである[9]

東京ムービー期の『ムーミン』のレーザーディスクが発売された1989年時点でも、東京ムービーの社内ではトーベの苦情よりも「赤字を作った作品」という評価の方が強く残っており、世間の評価とは裏腹に社内での評価は低いままだった[9]

虫プロダクションへの交代・視聴者の反応

東京ムービーの契約終了に伴い、第27話『顔をなくしたニンニ』からは新たに虫プロダクションが制作会社として参加した。同社が制作を手掛けるに当たっては、キャラクターデザインを原作の絵に近付ける形でスマートにしたり、スノークのお嬢さん(ノンノン)のリボンを外したり、自動車の使用を控えたりするなど、スタッフはトーベの要望に沿って放送を試みることにした。しかし実際に放送されると、終了後から問い合わせなどが殺到し始めた。

視聴者からは「キャラクターが怖くなった」「つまらなくなったのはなぜ?」「どうしてムードが変わったの?」という意見が出たり、ラジオの深夜放送の投書にも「面白くなくなったのはなぜ?」「なぜ絵を変えたの?」と著しい不評が寄せられた。東京ムービー期の出来に満足していた提供会社のカルピスの役員たちも、第27話を視聴して非常に激しい不満を持った。そのためキャラクターデザインは「日本国内でのみ放送する」という条件で東京ムービー期に近いものへ戻された[注釈 2]

原作者の不満

トーベ・ヤンソンは、アメリカのカートゥーン(アニメーション)や西部劇のテレビ放送などを野蛮に思っていたようで、それらの要素をアニメ化すると本シリーズも野蛮になっていくというおそれを感じていたという[11]。実際は原作でもキャラクターが悪さをする場面があり、自動車も登場するが、1969年版の脚本家・山崎忠昭の著書『日活アクション無頓帖』[要文献特定詳細情報]に掲載された、トーベの手紙の全文翻訳では、「出発点、即ち、ムーミン谷、ムーミン的考え方すべてが違って表現されている」に始まり、「ムーミンは蝶を虫取り網で捕まえたりしません。蝶が自然に捕まるか、逃げるに任せます」「(スノークの)自動車は使うべきでない」「(本シリーズに)都会は不向き。彼らは現代社会には生きてはいない」「ムーミン家の内装を変えて欲しい。広すぎてガランとしている。事務所のようにみえる」「手を伸ばさないと出来ないならば、ギターの演奏は止めて欲しい」「ママは常にハンドバッグ、パパはステッキを持つこと」など、作品世界の文化から各登場人物の持ち物・服装・生活様式に至るまで、こと細かに要望が書き連ねられている。「スノークのお嬢さん」に名付けた「ノンノン」という名前も、「no」や「non」という否定的な響きに受け取れるとしていた[注釈 3]

東京ムービー制作期の大塚康生によるキャラクターデザインは、原作小説の挿絵をベースとしつつも大胆にアレンジしており、動きのかわいさや絵の丸みを大切にマシュマロのような柔らかさをもって描かれていた[12]。当時の視聴者にはこの丸みを帯びたキャラクターデザインが「かわいい」と受け入れられたが、トーベにはシャープさに欠けると不評だったようである[13]。また、角ばった顔[注釈 4]と彩色が灰色なため「(設定では本来は妖精であるはずの)ムーミンは河馬(カバ)」という勘違いの材料のひとつだったことも指摘されている[14]

虫プロ制作期に作画で参加した森田浩光によると、トーベとは何度か話し合いの場が設けられたといい、トーベ自身が虫プロに出向いたこともあった。だがトーベの要望は、日本の風土に合わないと判断され採用されなかったものもあり(スナフキンやミイの素手を(黒い手袋をはめて)黒くしてほしいなど)、トーベは「これ(同作品)を海外で売る場合は、トーベヤンソン原作のムーミンとして売ることは認められない」と言っていたという[15]

1969年版はもとより、1972年版でデザイン変更をさらに試みても、なおヤンソン側からは「日本国内はともかく、外国での放送は認めません」[16]の一点張りだったと言われている。その一方で、トーベは本シリーズを全否定していたわけではなく、水や空などの背景を「カラー効果が上手くでている」と褒めたり、来日時に「日本的なムーミンもあってもよいと考えるようになりました」と発言し[17]、晩年には「自分の描いたムーミンと違っていても子供たちが喜ぶならそれでいい」と本シリーズを肯定する発言もしていた[18]

1971年には、1972年版の放送開始記念にトーベが親友のトゥーリッキ・ピエティラ教授と一緒に日本に招かれた際、当時日曜に再放送されていた1969年版を見せないよう、放送する時間帯に高橋社長がトーベをホテルから連れ出して鎌倉の海岸に誘い出したり策を練っていたという逸話がある[9]

このように原作者は不満を持っていたものの、視聴者の子供や親からは好評を得て、後述の『楽しいムーミン一家』放送前日までは再放送が繰り返され、ズイヨー(瑞鷹)監修のキャラクターグッズやレコード・ビデオなども発売されたり、1973年から長期にわたってキャラクターがトヨタ自動車の交通安全キャンペーンに用いられる[19][注釈 5]など長く愛された。そのため、原作の「スノークのお嬢さん」を「ノンノン」と認識している世代も多い。

現在

1990年に『楽しいムーミン一家』が放送されて以降、日本国内では再放送やソフト化を始めとする本シリーズの二次利用は一切行われておらず。ムーミンキャラクターズ社の意向で、基本的に非公開とされている。

トーベの姪で、ムーミンの著作権を一括管理するムーミンキャラクターズ社の代表であるソフィア・ヤンソンは、本シリーズについて「このアニメの製作者たちは、トーベが認めなかった大きな自由を手に入れました。このシリーズには、とりわけ、ムーミンの世界に属さない暴力[注釈 6]や状況が含まれていました。登場人物も、トーベが創り出す世界とは見た目も色も違っており、内容だけでなく、形も大きく異なっていました」としている。また、ソフィアは「新作品の公開に依って、本作品を非公開としたのはトーベの意向である」と述べており、「日本人はトーベの決定に失望しました。(原作の)ファンでさえこのシリーズを愛していました」と語っており、ソフィア自身も本シリーズは見たことがないという[20]

その一方、本シリーズでキャラクターデザインを担当していた大塚康生は、21世紀初頭でも台湾では本シリーズが繰り返し再放送されていると証言している[21]

また、トヨタ自動車では2002年まで、「春の交通安全キャンペーン」の幼児向け交通安全教材として[22][23][24]、本シリーズの設定を使用したムーミンの絵本と紙芝居を配布していた[注釈 7][25]

本シリーズの主題歌の『ねえ、ムーミン(ムーミンのテーマ)』などは2020年現在も、ムーミン関係のテレビ映像で使用されることがある。

2018年1月に行われた大学入試センター試験の「地理B」で出題された「アニメーションの舞台となった国」に関する問題で、本シリーズのワンカットが使用されている[26]

2020年、ドキュメンタリー特番『成功の遺伝史』(3月2日放送分)にて、本シリーズの音楽を担当した宇野誠一郎が特集された際には、1972年版の本編映像が併せて使用された。

2022年現在、英語版のムーミン公式サイトでは、本シリーズが1969年版・1972年版共に紹介されており、第1話の映像も公開されている([1])が、いずれもYouTube違法アップロードされたものがリンクされたものである[27]


注釈

  1. ^ 日本アニメーションが公式に定める範囲には含まれていないものの、本シリーズを『世界名作劇場』として含める見解も存在する(詳細は当該項目を参照)。
  2. ^ もっとも、スノークのお嬢さん(ノンノン)のリボンのような例外もない訳ではない。
  3. ^ とはいえ、日本の子供から届いたファンレターの返信には、「ムーミンと『ノンノン』からも私とお礼を言っています。」のように記して届いたものが、雑誌『MOE』にて不定期に刊行されたムーミン特集号に写真とともに掲載されている。
  4. ^ 実は原作の絵でも、弟ラルスが作画したコミックスでは、トーベが描いた作品とは異なり角張っていたりもする。
  5. ^ トヨタ自動車の交通安全キャンペーンは1969年に開始されたが、1973年にムーミンを主人公とした「交通安全ぬり絵本」を配布、その後も長らく、ムーミンを起用した交通安全絵本・すごろく・レコード・紙芝居などを配布してきた[19]
  6. ^ 原作の飛行鬼のハットで、ムーミンが変身した時にスニフ、スナフキン、ミイにボコボコに殴る蹴るの暴行が描かれたのを始め、ギャングや警察の登場の時密造酒の製造犯人に、署長の甥の見習い巡査が暴力を振るう場面が描かれている。
  7. ^ 原作の「スノークのお嬢さん」が「ノンノン」と表記されており、©ZUIYOの著作権表示もあった。2003年以後はオリジナルキャラクターの絵本・紙芝居に変更されている。
  8. ^ 1969年版第8話では、出演しているが未クレジット。
  9. ^ 1969年版では富田耕吉と表記される回がある。
  10. ^ 1969年版の第49話では、出演しているが未クレジット。また、クレジットの記載文字に誤字で西本裕子となっている回がある。72年版共。
  11. ^ 原作とは異なり、言葉はしゃべらない
  12. ^ 「おさびし山のうた」の表記もあり。
  13. ^ 以降、作中ではギター伴奏はなく、またギターの時には歌がなく、などでトラでの時には歌が入る場合があった。レコードでは、日本コロムビアでギター伴奏で3番まで歌っている。こちらは冒頭の部分に、ムーミンの台詞「あ!あの声は!あれは!あれは!!…」を被せている。
  14. ^ 「ノンノンのうた」の表記もあり。
  15. ^ 再放送で「金持ちはもうやだ」に変更。
  16. ^ 本シリーズではクレジットされていないものの、原作の共同作者でトーベの末弟ラルス・ヤンソンの作品が元になっているものも存在している。
  17. ^ 「今日は」の読みは「こんにちは」。
  18. ^ 1972年1月16日(第2話)のサービス放送期間中から放送[37]

出典

  1. ^ ムーミン公式 [@moomin_jp] (2019年10月5日). "【今日はなんの日】". X(旧Twitter)より2022年10月22日閲覧
  2. ^ a b 第4弾 大塚康生氏 vol.5 ビジネス戦略が一人歩きした”. おおすみ正秋の仕事場 (2008年9月4日). 2024年5月6日閲覧。
  3. ^ vol.3 原作者トーベヤンソンとムーミンの時代背景”. おおすみ正秋の仕事場 (2008年9月4日). 2019年9月14日閲覧。
  4. ^ a b vol.8 岸田今日子との出会い”. おおすみ正秋の仕事場 (2008年9月4日). 2022年3月29日閲覧。
  5. ^ 日活アクション無頓帖 2007, pp. 181, 「雪室俊一インタビュー 山崎忠昭さんは"全身シナリオライター"だった」
  6. ^ ムーミンの彼女の名前は?”. ムーミン公式サイト. 2019年9月14日閲覧。
  7. ^ 堀純子「日本における―日本における児童文学と映像作品」『児童文学とそのマルチメディア化国際子ども図書館平成26年度児童文学連続講座講義録(2015年9月)pp.79 - 98
  8. ^ 高畑勲、宮崎駿小田部羊一『幻の「長くつ下のピッピ」』岩波書店、2014年、pp.136 - 138
  9. ^ a b c d バンダイLD『ムーミン』付属解説書より
  10. ^ 日活アクション無頓帖 2007, pp. 133–135, 「第25章 作者トーベ・ヤンソンからのクレーム」
  11. ^ トーベ・ヤンソンの姪である、ソフィア・ヤンソン(末弟ラルス・ヤンソンの娘)へのインタビュー「叔母トーベ・ヤンソン」で回答
  12. ^ 大塚康生『作画汗まみれ』[要文献特定詳細情報]
  13. ^ 『日活アクション無頼帖』トーベの苦情の中に、「私のムーミンは、こんなにデブじゃない」と言っていたとされる。を参照
  14. ^ ムーミンはカバじゃない! じゃあ何?”. 2019年1月27日閲覧。
  15. ^ a b 虫プロダクション資料集編集室『虫プロダクション資料集 1962~1973』虫プロダクション、1977年。 
  16. ^ 『ムーミン』作品の管理を行う「ムーミンキャラクター社(社長;ソフィア・ヤンソン)」
  17. ^ 読売新聞 1971年11月11日付
  18. ^ 昭和から平成、令和へ。ムーミンアニメの歴史”. ムーミン公式サイト (2021年11月5日). 2022年3月29日閲覧。
  19. ^ a b 月刊『ブレーン』(宣伝会議)1981年7月号、59頁。
  20. ^ Jyrki Jantunen (2019年3月3日). “Tove Jansson kauhistui väkivaltaisista muumeista – ”Se tv-sarja oli Tovelle shokki””. Kotiliesi. https://kotiliesi.fi/ihmiset-ja-ilmiot/ilmiot/tove-jansson-vakivalta-muumi-sarja-sokki/ 2022年10月22日閲覧。 日本の雑誌に、訳文の掲載あり
  21. ^ vol.9 世界の人を魅了した初代ムーミン”. おおすみ正秋の仕事場 (2008年9月4日). 2022年3月29日閲覧。
  22. ^ 「トヨタ春の交通安全キャンペーン」を実施、トヨタ自動車、1999年3月30日。
  23. ^ 「トヨタ春の交通安全キャンペーン」を実施、トヨタ自動車、2000年3月30日。
  24. ^ 春の「トヨタ交通安全キャンペーン」を実施、トヨタ自動車、2002年3月28日。
  25. ^ ~TOYOTA INTERNET DRIVE-カーライフ-交通安全-クルマのくにのこどもたち-WEBライブラリー~
  26. ^ “ムーミンの舞台、入試センター「設問に支障なし」”. 朝日新聞デジタル. (2018年1月16日). https://www.asahi.com/articles/ASL1J5TGRL1JUTIL049.html [リンク切れ]
  27. ^ Moomin animations: Moomin (1969-1970) & Shin Moomin (1972)”. Moomin Official. Moomin Characters Oy Ltd (18.2.2016). 2022年10月22日閲覧。
  28. ^ a b 藤川桂介「II アニメーション時代 ムーミン、新ムーミン--アニメーションに出会う 幻の企画「ムックリムーミンちゃん」」『アニメ・特撮ヒーロー誕生のとき ウルトラマン、宇宙戦艦ヤマトから六神合体ゴッドマーズまで』ネスコ、1998年8月9日、ISBN 4-89036-979-1、54-55頁。
  29. ^ TV AGE広報部さんのツイート(2018年12月29日) - Twitter
  30. ^ 『河北新報』1972年7月7日 - 12月29日付朝刊、テレビ欄。
  31. ^ 『河北新報』1970年4月5日 - 12月27日付朝刊、テレビ欄。
  32. ^ 『福島民報』1969年11月1日 - 1970年12月27日付朝刊、テレビ欄。
  33. ^ 『福島民報』1971年8月20日 - 1972年1月7日付朝刊、テレビ欄。
  34. ^ a b 『北國新聞』1969年10月5日付朝刊8面テレビ欄より。
  35. ^ 『中日新聞縮刷版』中日新聞本社、1975年9月、730頁。 
  36. ^ 『テレビアニメ25年史』[要ページ番号]
  37. ^ 北海道新聞』 1972年(昭和47年)1月 テレビ欄。
  38. ^ a b c 『河北新報』1972年1月9日 - 12月31日付朝刊、テレビ欄。
  39. ^ 『河北新報』1972年3月5日 - 1973年1月28日付朝刊、テレビ欄。
  40. ^ 『福島民報』1973年11月28日 - 1974年2月11日付朝刊、テレビ欄。
  41. ^ a b c 北國新聞 1972年9月3日付朝刊テレビ欄より。
  42. ^ a b 南日本新聞』1972年5月31日付朝刊、テレビ欄。
  43. ^ a b c 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, pp. 38–39, 「1971春期」





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ムーミン (アニメ)」の関連用語

ムーミン (アニメ)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ムーミン (アニメ)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのムーミン (アニメ) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS