ビルマ連邦国民連合政府 歴史

ビルマ連邦国民連合政府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/30 14:21 UTC 版)

歴史

ミャンマーでは1974年からビルマ連邦社会主義共和国による一党独裁体制が続いていたが、ネ・ウィン将軍の独裁に対する反発から1988年3月に大衆運動(8888民主化運動)が発生した。これを受け、同年7月にネ・ウィンはビルマ社会主義計画党(BSPP、マサラ)の議長職を退き、1962年以来続いてきたネ・ウィンの独裁政治は終わりを告げた。しかし、大衆運動によって国内が騒乱状態となっていたことから、同年9月18日に、ネ・ウィンのもとでビルマ軍参謀長を務めていたソウ・マウン将軍がクーデターを決行し、1974年に制定されたビルマ連邦社会主義共和国憲法の停止と、国家法秩序回復評議会(SLORC)の設置を行なった。SLORCは自らを民政移管までの暫定政権と規定し、反体制運動を武力で取り締まる一方、複数政党制の導入と国民議会(人民議会)総選挙の実施を公約した。そのため、民主化を求める国民民主連盟(NLD)はアウン・サン・スー・チーを書記長とするなど活動を活発化させたが、SLORCは1989年7月にNLDのティン・ウ議長とアウン・サン・スー・チー書記長を「国家破壊法違反」として自宅に軟禁し、政治活動も禁止した。

その後、反体制運動取締りの中で、SLORCは1990年5月27日国民議会の総選挙を実施したが、結果は野党のNLDが議席(485議席)の8割以上(392議席)を獲得する圧勝となった。NLDは政権移譲と国民議会の早期開催を求めたが、逆にSLORCは新憲法制定(政治体制の確立)を政権委譲より優先させるべきとの判断から、国民議会の招集を拒否すると同時に、当時各地で生じていた国内少数民族の反政府武力闘争の鎮圧作業を行った。また、SLORCは「布告第九十/一号」を発令し、SLORCの方針に反発する野党党員逮捕や当選議員の資格剥奪などを行なうことで主にNLDの抵抗を抑えた。そのため、国民議会の反SLORC勢力は1990年12月に密かに国民議会を召集し、450人中250人が集う中、議会議員及び SLORC と内戦を繰り広げていた反政府ゲリラ勢力、カレン民族同盟、NLDの支持を受けながら、同月18日にビルマ連邦国民連邦政府NCGUB)を公式に結成するに至った。その際、政府元首として、アウン・サン・スー・チーの従兄弟たるセイン・ウィン(Sein Win)が首相職に任命されている。

新憲法制定を最優先とするSLORCは、1992年4月のタン・シュエ将軍の議長就任後、93年1月に新憲法策定のために制憲国民会議を招集、9月に国家の基本原則を公表した。このようなSLORCの動きにNLDは反発したが、SLORCはNLD所属の国民議会議員の逮捕や議員資格の剥奪などの処置で抵抗を封じ込めた。結果、95年11月、複数政党制、二院制議会、州の自治承認などについて審議する制憲国民会議が招集された際には、1990年の総選挙で選出された議員は会議出席者の約14%に減少し、他はSLORC選出の議員が占めていた。そのため、会議に反発的なNLDは、会議の進行が非民主的であることを理由に会議をボイコットし、1996年6月15日の党大会で独自の憲法草案を発表した。更には、国民議会選挙後に亡命した国民議会議員が、国民議会を代表するために、同年6月18日国会議員連合MPU)を結成した。(正式な設立は2000年10月。)これに対し、SLORCはアウン・サン・スー・チーの対話集会禁止などNLDへの弾圧を強化し、国家秩序の安定に対する自信から97年11月にSLORCを国家平和発展評議会(SPDC)に改組した。

NLDは何度も国民議会の開催をSPDCに申し入れたが、SPDCは応じる気配を見せなかった。そのため、1998年6月からNLDは国際社会の支援を背景とした民主化運動の盛り上がりを狙い、60日以内の国民議会開会を要求した後、1998年9月16日、独自に90年総選挙の選出議員10人から構成される国民議会代表者委員会CRPP)を発足させ、1990年5月の総選挙で当選した議員の過半数の委任を正統性根拠にして、国民議会の「代行開催」に踏み切った。CRPPはヤンゴンで初会合を開き、SPDCが出す各種法令に正当性がないことを個別具体的に宣言し、独自の新憲法草案作成にも着手した。NLDは12月にキン・ニュンSPDC第1書記を犯罪行為で司法当局に訴えるなど、SPDCへの対決姿勢を強めたが、SPDCはこれに対し、300人以上のNLD幹部を拘束し、他にも99年1月の独立記念日におけるタン・シュエのNLD・アウン・サン・スー・チー非難など対抗措置を採った。

発足以来、NCGUBやMPU、CRPPはミャンマー民主化のための活動を海外で積極的に展開し、主に欧米諸国等から支持を得ることに成功した。一方、SPDCのタン・シュエ政権は欧米諸国から人権侵害や民主化運動の弾圧等を理由に経済制裁を受けることになったが、それでも民主化のための対話を進めなかった。その為、NCGUBとSPDCの関係は対立状態のまま膠着したが、2007年10月にテイン・セイン首相に就任すると事態は大きく進展した。テイン・セインの首相就任以降、SPDCは政治体制の改革を加速し、2008年5月10日及び同月24日には新憲法案についての国民投票を実施した。NCGUBは憲法案の中身や選挙の中立性等を理由として選挙に反対していたが、SPDCによる選挙の強行によって新憲法案は可決された。以降はSPDCによって民主化が一歩一歩と計られ、2010年には新憲法に基づき、両院制連邦議会下院人民代表院英語版上院民族代表院英語版で構成)の民選議員[2]選出することになった。SPDCは選挙を「民主化へのロードマップ」と位置づけたが、NCGUBは選挙の公平・中立性が確保されていない事等を理由に反対・ボイコットの姿勢を示した[3]。しかし、選挙は2010年11月17日に予定通り実施され、SPDCの流れを汲む連邦団結発展党(USDP)が第一党となった。

2011年になると、NCGUB を取り巻く環境は大きく変わった。同年1月31日に連邦議会が開幕し、3月30日にはSPDCの解散とテイン・セインの大統領就任によって、ミャンマーの軍事政権時代に幕が下りた。その後、テイン・セイン大統領は7月にアウン・サン・スー・チーと国家の発展のため協力し合うことで合意し、10月12日政治犯を含む受刑者6359人を恩赦で釈放、11月4日に政党登録法の一部改正(服役囚に党員資格を与えないとした条項の削除)を承認する等、民主化に向けた取り組みを続けていった。これを受け、NCGUBを支持していたアメリカEU諸国がミャンマーへの経済制裁を解除する方向へ動き始め、NCGUBの一角である国民民主連盟(NLD)も11月25日にミャンマー政府へ政党登録して現行憲法下で国政に参加することになった(詳細は英語版記事参照のこと)。その結果、「非民主的なミャンマー政府に対抗する」ことを目的としたNCGUBは存在意義を失い、ミャンマー本国での改革運動へ合流するため2012年9月14日をもって解散した。


  1. ^ ビルマ連邦社会主義共和国時代に存在したビルマの議会。日本語では「国民議会」とも訳される。なお、ビルマ語での名称は「Pyithu Hluttaw」だが、この名称は後に設置される連邦議会人民代表院英語版でも用いられている。
  2. ^ 議席定数の3/4。残る1/4の議員はミャンマー国軍最高司令官によって任命される。
  3. ^ ただし、NCGUBの最大勢力である国民民主連盟(NLD)は選挙への対応を巡って分裂し、大多数は選挙ボイコットに賛同したものの、一部の人員は国民民主勢力(NDF)を結成して選挙に参加した。
  4. ^ 1990年の民主的な選挙で表明された人々の意志に従って、民主主義の設立を確実にするために緊急で意義のある対策を取ることと、そのために政党や少数民族の指導者達との実際的な会話を即座に、また無条件に着手する事」を勧告。





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