ニコライ2世 (ロシア皇帝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 06:43 UTC 版)
人物
貧弱で凡庸な皇帝とイメージされることが多い。有能な人物に対する嫉妬からこれを遠ざけ、従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプであったため、統治者には向かなかったとする批評もある。プライベートでは写真撮影が趣味の家庭人で誠実な人物であったという。外交においても、フランスを出し抜いてドイツ皇帝と締結した密約を最終的には破棄するなど、権謀術数が渦巻く当時のヨーロッパにしてはめずらしく、同盟国に対しては忠実であった。
反ユダヤ的と見なされているが、1914年に賞金の一部を寄付したサンクトペテルブルクのチェス競技会において、決勝に進出した5人に名誉称号を与えたが、この中にはユダヤ系ドイツ人のエマーヌエール・ラスカーも含まれており、最終的にラスカーが優勝している。なおこの称号がグランドマスターの原型となった。
イギリス国王ジョージ5世との関係
ニコライの母マリアの姉がエドワード7世妃のアレクサンドラ・オブ・デンマークであり、ジョージ5世の母にあたる。そのため、イギリス国王ジョージ5世はニコライの従兄となる。
ニコライとイギリス国王ジョージ5世とは、入れ替わっても親族さえ気付かないほど容貌がよく似ていた。ロシア革命後イギリスに亡命した皇帝の家臣がジョージ5世に拝謁した時、ニコライ2世が生きていたと思って跪いたという。また、自身の皇后アレクサンドラもジョージ5世の従妹にあたる。
第一次世界大戦中に革命が起きた直後、ニコライ2世はジョージ5世治下のイギリスへ亡命しようとした。しかし20世紀に入って結党されたイギリス労働党が次第に勢力を伸ばすなか、社会主義に対し好意的な労働者や知識階級の暴動を恐れた英国政府はこの要請を黙殺した。また、自由主義を信奉するイギリス国内には専制的なロシアに対する反感が存在し、王室からの亡命要請に対してイギリスは亡命を拒否した。同じく従兄であるドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はドイツへの亡命をニコライ2世に勧めた。しかし、ドイツとロシアは交戦国同士であり、前線で自ら指揮を執っていたこともあるニコライは交戦国への亡命を躊躇した。
死後の影響
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年2月) |
元皇帝一家の最後の状況については、5番目の皇女がいる、皇帝一家は死んでいない、など長年さまざまな噂が流れていた。末娘アナスタシア皇女を名乗る女性(アンナ・アンダーソンなど)がヨーロッパ各地に現れ、世間の話題をさらうこともあった。一方、一家が殺害されたイパチェフ館は、デタントの進行でエカテリンブルグ(当時はスヴェルドロフスクと呼ばれていた)の外国人訪問阻止が困難となったことから、皇帝一家と従者たちを銃殺したことの証拠隠滅を急いだモスクワの指令を受けたボリス・エリツィンにより、1977年7月に解体された(エリツィンは新生ロシアの初代大統領になった後にこの件について釈明し、謝罪している)。その後、1979年になって民間人の地質調査隊がニコライ2世の死に関心を抱き、ボリシェヴィキ出身の両親を持つ映画監督のゲリー・リャボフ調査員が元皇帝一家の遺骨を発見したが、モスクワで専門家に「このことに首を突っ込むな、全部忘れてしまえ!」と警告されたため、遺骨の石膏の型が取られた後にいったん埋め戻された。ソ連時代はニコライ2世を裁判なしに殺害した事実はタブーであった。エリツィンによって取り壊されたイパチェフ館の跡地には2003年になって教会が立てられ、「血の上の教会」と命名された。
1991年、ソビエト連邦の崩壊によって公開された記録から、元皇帝一家全員が赤軍に銃殺されたことが正式に確認された。その後、改めて掘り起こされた遺骨のDNA鑑定を行うため、残されていた複数の資料との照合が行われた。その中には日本に保管されていた「大津事件血染めのハンカチ」も含まれていたが、サンプルの量が少なく、この資料からは血液型の判定までしか行えなかった。元ロシア皇族の末裔らも、鑑定用に検査に応じた。グリュックスブルク家とヘッセン家の血を引くエディンバラ公フィリップもその一人である。
結局他の資料から遺骨がニコライ2世本人のものと判明。ロシア正教会は他のソビエト革命の犠牲者とともにニコライ2世とその家族を「新致命者」(殉教者の意)として列聖した。この列聖には、過去の清算とイパチェフ館の罪滅ぼしをしたいエリツィンの意向が働いていた。ニコライ2世を単なる致命者ではなくイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)と同格の救世主であるとするいわゆるツァレボージニキ(ロシア語: царебожники)の運動が1930年代以降断続的にロシア正教会の内部で起こっているが、2008年にはその主導者であるチュコト主教ディオミドらがロシア正教会から追放され彼らの運動はモスクワ総主教庁と断絶した[83]。2007年7月にはエカテリンブルク郊外で新たな二つの遺骨が掘り起こされ、翌2008年7月16日にアメリカの機関による大津事件の際の血痕付着のシャツのDNA鑑定の結果、長男アレクセイと3女マリアのものであるということが確認され、元皇帝一家全員分の遺骨が確認された。
2008年10月1日、ロシア最高裁判所にて「根拠なしに迫害された」として名誉回復の裁定が下された。ロマノフ家事務局代表は「90年前の犯罪が指弾されることは重要」として、この裁定を歓迎した。
注釈
出典
- ^ 従叔父で同名のニコライ大公の愛称である「ニコラーシャ」と区別した。
- ^ ウォーンズ(2001) p.215/246/231
- ^ ダンコース(2001) p.62
- ^ a b c ウォーンズ(2001) p.256
- ^ ウォーンズ(2001) p.215
- ^ マッシー(1996) p.13
- ^ リーベン(1993) p.64
- ^ リーベン(1993) p.61
- ^ リーベン(1993) p.61-62
- ^ a b リーベン(1993) p.67
- ^ ダンコース(2001) p.65
- ^ リーベン(1993) p.65
- ^ ダンコース(2001) p.63
- ^ リーベン(1993) p.68-69
- ^ リーベン(1993) p.70-71
- ^ ダンコース(2001) p.73
- ^ ダンコース(2001) p.73-74
- ^ a b c キーン(2001)下巻 p.125
- ^ a b リーベン(1993) p.71
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、181頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ a b c d キーン(2001)下巻 p.126
- ^ 保田(1990) p.23-24
- ^ キーン(2001)下巻 p.127
- ^ a b キーン(2001)下巻 p.128
- ^ 保田(1990) p.44
- ^ キーン(2001)下巻 p.128-129
- ^ a b c ダンコース(2001) p.75
- ^ キーン(2001)下巻 p.129
- ^ ラジンスキー(1993) 上巻 p.53-54
- ^ a b c キーン(2001)下巻 p.130
- ^ キーン(2001)下巻 p.132
- ^ キーン(2001)下巻 p.134
- ^ a b c キーン(2001)下巻 p.135
- ^ 保田(1990) p.60
- ^ キーン(2001)下巻 p.137-138
- ^ キーン(2001)下巻 p.137/139
- ^ キーン(2001)下巻 p.139
- ^ 保田(1990) p.74
- ^ 保田(1990) p.73-74
- ^ 保田(1990) p.51
- ^ リーベン(1993) p.73
- ^ リーベン(1993) p.82
- ^ リーベン(1993) p.82-83
- ^ リーベン(1993) p.83
- ^ a b リーベン(1993) p.92
- ^ ダンコース(2001) p.83
- ^ ダンコース(2001) p.84
- ^ リーベン(1993) p.95
- ^ リーベン(1993) p.102-103
- ^ a b ダンコース(2001) p.91
- ^ ダンコース(2001) p.92
- ^ 田中・倉持・和田(1994) p.317-318
- ^ a b ダンコース(2001) p.123
- ^ 坂井(1967) p.233
- ^ a b リーベン(1993) p.153
- ^ 田中・倉持・和田(1994) p.319
- ^ リーベン(1993) p.153-154
- ^ ダンコース(2001) p.100/124
- ^ 坂井(1967) p.254-255
- ^ a b c リーベン(1993) p.154
- ^ ダンコース(2001) p.124
- ^ a b “<外交は力だ>(1)旧韓末の救国外交「ロシア皇帝に送った高宗親書を初公開」”. 中央日報. (2015年8月12日). オリジナルの2022年8月24日時点におけるアーカイブ。
- ^ 田中・倉持・和田(1994) p.318
- ^ ダンコース(2001) p.123-124
- ^ リーベン(1993) p.155-156
- ^ a b ダンコース(2001) p.125
- ^ a b c リーベン(1993) p.157
- ^ ダンコース(2001) p.126
- ^ ダンコース(2001) p.126/136
- ^ a b ダンコース(2001) p.138
- ^ リーベン(1993) p.157-158
- ^ ダンコース(2001) p.127
- ^ ダンコース(2001) p.127-128
- ^ ダンコース(2001) p.130-131
- ^ a b リーベン(1993) p.218
- ^ ダンコース(2001) p.131
- ^ リーベン(1993) p.219
- ^ ダンコース(2001) p.131-132
- ^ ダンコース(2001) p.132-133
- ^ ダンコース(2001) p.141-142
- ^ ダンコース(2001) p.143-144
- ^ ジェイムズ・B・ラヴェル(著)、広瀬順弘(訳). アナスタシア―消えた皇女. 角川文庫. p. 35. ISBN 978-4042778011
- ^ Андрей Григорьев. Ультраправославные апологеты уподобили Николая II Христу
- ニコライ2世 (ロシア皇帝)のページへのリンク