ビヨルケ会談
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「ビヨルケ会談」の解説
1905年7月24日にニコライはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とフィンランド沖ビヨルケで会談し、近臣にも同盟国フランスにも独断で密約を結んだ。バルチック艦隊が日本艦船と間違えて英国漁船を沈めた事件(ドッガーバンク事件)の報復として、すでに日英同盟を結んでいたイギリスはロシアの孤立化に努めており、これに不満を抱いていたニコライ2世は、日本に対して三国干渉で共闘したロシア、フランス、ドイツといった大陸ヨーロッパ諸国の連携による日英同盟の打破を考えていたためだった。 しかしロシア外相ラムズドルフは、このような条約はドイツと対立するフランスへの裏切りであり、フランスは決して参加しないと反対した。やがてニコライ2世も徐々に不信感を抱くようになり、海外進出積極主義者のヴィルヘルム2世による露仏離間策と考えるようになったため、この密約は葬られた。
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