ゲオルギー・マレンコフ 概要

ゲオルギー・マレンコフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/04 12:49 UTC 版)

概要

赤軍政治委員、共産党中央組織要職を務め、1939年に党中央委員・書記・人事局長となり、第二次世界大戦中は国家防衛委員会委員を兼任する。1944年5月に閣僚会議副議長(副首相)、1946年3月に政治局員となり、スターリンの後継者と目された。1953年3月のスターリンの死去によって後任の閣僚会議議長(首相)となり、フルシチョフヴォロシーロフと共にトロイカ体制を形成した。国際協調・党内集団指導制・消費物資増産など新政策を推進したが、1955年2月に辞職し、1957年6月に反党グループと目されて失脚した。

生い立ちから権力の掌握まで

生い立ち

1902年1月13日ロシア帝国オレンブルクで、マケドニア人移民のもとに生まれる。マレンコフの父はオレンブルクの裕福な農家であり、若かりし頃のマレンコフは時々父の農作物販売の仕事を手伝った。母は鍛冶屋の娘であり、正教会の司祭の孫娘だった。1918年に志願して赤軍に加わり、ロシア内戦では政治将校として白軍と対峙した。1920年4月に共産党に入党し、その後は軍を本拠とするモスクワ高等専門学校の共産党書記を務めた。1925年9月にモスクワ高等工科学校ロシア語版を卒業した[1]

スターリンの側近として

1924年ヨシフ・スターリンの目に留まり、党中央委員会に引き入れられる。1925年、中央委員会組織局で働き、後にスターリン個人の秘書局員となり、1932年2月にその責任者となる。1934年3月に全ソ連邦共産党組織部長となり、1936年8月に始まったスターリンの大粛清ラヴレンチー・ベリヤと共に加担し、その功で1939年3月に第18回党大会で中央委員会委員党書記局員となり、党幹部要員管理局長として党官僚の人事を統制できるようになり、正式な組織局員となった。

1941年2月には政治局員候補となるも、その後ベリヤとは政敵になった。1941年6月に独ソ戦が開始されると、マレンコフはベリヤ、ヴォロシーロフ、モロトフと共にスターリンを議長とする国家防衛委員会の委員となった。この委員会は戦時においてソ連国内の政治・経済を完全に掌握するものであり、マレンコフはソ連の最有力政治家の1人となった。1941年から1943年の間に軍用機の製造監督の任務が与えられた。1943年8月には連邦人民委員会議付属のドイツ軍占領解放地区経済復興委員会議長に就任し、レニングラードを除く既に解放された複数の地域の戦災からの復興に尽力した。

スターリンはマレンコフとベリヤに核ミサイル開発監督の任務を与えた。そして、マレンコフはミサイルプログラムの責任者に任命された。この時マレンコフを補佐したのが、後にブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ政権で国防相を務めることになる、若きロケット科学者のドミトリー・ウスチノフであった。

1944年5月に閣僚会議副議長(副首相)となり、第二次世界大戦後の1946年3月に党政治局員に昇進した。そして党第二書記として党内におけるスターリンの代理の職務を割り当てられた。しかしマレンコフが監督した航空事業の中で欠陥のある航空機が量産されたことが非難を浴び、1946年3月から8月まで責任を取らされる形で役職から解任された状態となった。これは政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによる追い落とし工作だったが、ジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。その後ベリヤはマレンコフの傘下に入り、彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造し、ジダーノフの同調者を全て強制労働収容所に追放した。

ポスト・スターリン

タイム誌の表紙を飾ったマレンコフ(1953年3月23日)

戦後のスターリンは自身の老いから表立った活動を控えるようになり、1946年以降彼の死まで僅か3回しか公開演説を行わず、うち2回は数分しか続かなかった。スターリンが作成した文書の量も減少し、次第にスターリンは自身亡き後の国家運営について考えるようになる。この頃、スターリンの公務が激減するに連れて、マレンコフの公務は増加していき、1952年10月の第19回党大会ではスターリンに代わって中央委員会報告を行った。マレンコフは他のどの共産党員よりもスターリンに対して忠実であり、スターリンによって後継者として認知されたと観測された。このことはマレンコフが1952年10月と1953年3月のタイム誌の表紙を飾ったことからも衆目の一致するところであった。

1952年10月にスターリンは健康状態の悪化によって書記長職を辞し、同職を廃止した(ただし首相職には留まる)。スターリンは依然として党内に対する強い影響力を保持し続けたが、書記局の公務は替わってマレンコフが代行するようになった。

ソ連の首脳として

権力基盤の確立と集団指導制への道

1953年3月5日にスターリンが死去すると、翌3月6日ラヴレンチー・ベリヤによって、当時最も重要な地位であると考えられていた閣僚会議議長(首相)[2]の後任に祭り上げられた。また、書記局の名簿筆頭にもリストアップされ、マレンコフがスターリンの後継者として事実上の最高指導者となったことが確認された。しかし、新指導部は強大すぎる権限が1人に集中するのを防ぎたいと考え、最初に開かれた非公開の中央委員会会議でマレンコフは「人格崇拝の政策を終わらせ、集団指導体制に移行させる必要がある」と強調した。そして書記局の主導権をニキータ・フルシチョフに譲り渡し、憲法上の国家元首である最高会議幹部会議長クリメント・ヴォロシーロフが就任したことにより、ここに、マレンコフ、フルシチョフ、ヴォロシーロフの「トロイカ(三頭)体制」が成立した。権力が分散された中にあってもマレンコフは体制内での筆頭格として事実上の最高指導者であり続けた。第一副首相兼内相となったベリヤはスターリン批判を展開したが、マレンコフはそれを支持しなかった。この行動はフルシチョフにとっても承認できるものではなく、ベリヤは逮捕・処刑された。同年9月、フルシチョフは正式な共産党党首ポストである第一書記となった。

ソ連邦首相として

マレンコフは2年間首相の座にあったが、この間の彼の政治活動はクレムリン内の権力闘争と混同された。マレンコフは忠実なスターリン主義者であり続けたが、「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言して、核兵器の研究開発に反対する立場を表明した。その中でマレンコフは、核兵器の使用に反対する国際平和キャンペーンを展開するなど、外交については平和的な路線をとった。このような西側諸国との平和共存を模索する方針は強硬派から反発を受けることになり、後の首相交代の引き金にもなった。経済については、重工業よりも消費財の生産等の軽工業に再注力することを提唱し、ソビエト国民の生活水準の向上を目標に掲げた。また農業政策については、農民への減税・穀物生産の為にコルホーズへ支給される給付金の増額と自作農を奨励する政策を提唱した。これらの政策はマレンコフの首相在任時に決定されたが、財源的な課題もあり、目標を達成させることは困難を極めた。このような政策の失敗に加えて若い世代の政治家の昇進に反発したことも起因して、マレンコフの影響力は次第に低下していくことになる。

失脚

1955年2月に経済計画に関する意見の対立からフルシチョフによる追い落とし工作に遭い、既に処刑されていたベリヤとの関係性や「権力の濫用」との非難を浴び、首相の辞任を余儀無くされた。次いで後任の閣僚会議議長に就任したニコライ・ブルガーニン(フルシチョフの腹心)の下でマレンコフは副首相兼発電所大臣となり、事実上の降格人事の様相を呈した。その後マレンコフの経済計画は放棄され、ソ連は再度重工業重視に舵を切り、1955年に策定された国家予算で重工業への投資拡大が決定された。1957年6月にフルシチョフに対するクーデターを画策し、ニコライ・ブルガーニン、ヴャチェスラフ・モロトフラーザリ・カガノーヴィチらもこれに同調し、「反党グループ事件」が発生した。しかしこの試みは失敗に終わり、逆に反党分子として批判を浴びる。そして、副首相・発電所大臣を解任され、フルシチョフによって党中央委員会、政治局からも追放された。なお、この事件を以てマレンコフの築き上げた集団指導体制が完全に反故にされ、フルシチョフが名実ともに党・国家の最高実力者となった。








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