ポスト・スターリン
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「ゲオルギー・マレンコフ」の記事における「ポスト・スターリン」の解説
戦後のスターリンは自身の老いから表立った活動を控えるようになり、1946年以降彼の死まで僅か3回しか公開演説を行わず、うち2回は数分しか続かなかった。スターリンが作成した文書の量も減少し、次第にスターリンは自身亡き後の国家運営について考えるようになる。この頃、スターリンの公務が激減するに連れて、マレンコフの公務は増加していき、1952年10月の第19回党大会ではスターリンに代わって中央委員会報告を行った。マレンコフは他のどの共産党員よりもスターリンに対して忠実であり、スターリンによって後継者として認知されたと観測された。このことはマレンコフが1952年10月と1953年3月のタイム誌の表紙を飾ったことからも衆目の一致するところであった。 1952年10月にスターリンは健康状態の悪化によって書記長職を辞し、同職を廃止した(ただし首相職には留まる)。スターリンは依然として党内に対する強い影響力を保持し続けたが、書記局の公務は替わってマレンコフが代行するようになった。
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