クルックス管
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歴史
クルックス管の前身となったガイスラー管は現代のネオン管に似た実験用放電管である。ガイスラー管は10−3 atm(100 Pa)程度の低真空で動作するため[7]、管内の電子は少しの間飛んだだけで気体分子と衝突する。したがって電子の流れはゆっくりした拡散過程によって行われる。電子は繰り返し気体分子と衝突しながら進むので、運動エネルギーがそれほど高くなることはない。このような事情によりガイスラー管では陰極線のビームが作られることはない。その代わり、電子が気体分子に衝突してそれらを励起させ、光を放出させることで、管内は鮮やかな色を持つグロー放電で満たされる。
1870年代までにクルックスは共同研究者のギミンガムが改良したスプレンゲル式の水銀真空ポンプ(en:Sprengel pump)[8]を用い、ガイスラー管の真空度を10−6 - 5×10−8 atmにまで向上させた(ただし、ほかでも同様の研究は行われていた)。その結果、管内の圧力を下げていくにつれて、プラズマの陰極近辺から発光しない領域が広がり始めて管全域を覆い尽くし、代りに陽極側のガラス管底が発光し始めることが発見された。この暗領域は現在「クルックス暗部」と呼ばれている。
ここで起きているのは以下のようなことである。管内の空気が排気されるにつれて、陰極から飛び出した電子の運動を妨げる気体分子の数が減っていき、電子が衝突するまでに進む平均距離が長くなる。気体分子は衝突によって光を放出するので、クルックス暗部が管全域を覆い尽くしたとき、電子は陰極から陽極まで衝突することなく直進している。衝突によってエネルギーを失うことがなくなり、またクルックス管は電圧が高いことから、電子は相当な速度にまで加速される。管の端の陽極に差しかかったとき、大多数の電子はその横を飛び過ぎてガラスの内壁にぶつかる。電子そのものは目に見えないが、電子がガラス壁にぶつかるとガラスを構成する原子が励起され、黄緑色の蛍光を放出する。後の研究者はビームスポットを見やすくするためにクルックス管の管底に蛍光塗料を塗った。
この思わぬ蛍光現象により、管内にある陽極などの物体が蛍光スポットにくっきりした影を映すことが発見された。1869年、ヒットルフは陰極から何らかの直進するビームが出ていなければ影は作られないことを初めて指摘した[9]。1876年、ゴルトシュタインは何かが陰極から放出されていることを確かめ、「陰極線」(Kathodenstrahlen)と名付けた[10]。
その当時、既知の粒子の中で最小のものは原子であり、電子の存在は知られておらず、電流が何によって運ばれているかは謎だった。そんな中、陰極線の性質を探求するために様々な工夫を凝らしたクルックス管が作製された(後の節を参照)。真空中を弾道的に飛ぶ電子は導線を流れる電子よりも研究対象として手ごろであり、その性質は次々と暴かれていった。また、色鮮やかな光を発する放電管は、最新の電気科学の神秘を紹介する公開講座においても人気を博した。蛍光鉱物を材料としたり、蛍光塗料で蝶の絵が描かれるなどの装飾的なクルックス管も作製され、各種の蛍光物質が放つ多彩な色の光で観衆の目を楽しませた。
1895年、レントゲンはクルックス管から放出されているX線を発見した。X線に様々な使い道があることはすぐに明らかになり、ここでクルックス管に初めて実用的な用途が生まれた。
クルックス管の動作は不安定で信頼性に欠けていた。陰極線のエネルギーと流量はどちらも残留気体の圧力に左右された。時間とともに気体分子は管の壁に吸収されていくため、圧力が減少することで陰極線の放出量は減少していった。さらに管内の電位差も上昇するため、陰極線はより「硬質」な(エネルギーの高い)ものとなる。そのうち圧力がさらに低下するとクルックス管はまったく動作しなくなってしまう。これを防ぐため、X線管のように使用頻度の高いクルックス管では、少量の気体を放出して機能を回復させる調節器("softener")が組み込まれていた。
クルックス管の後を継いだのは、1906年ごろに発明された電子回路用の熱陰極 真空管である。この種の真空管はクルックス管より低い10−9 atm(10−4 Pa)程度の圧力で動作した。この圧力では気体分子が少なすぎるため電離による伝導は行われない。その代り、より信頼性の高い電子源として、熱陰極と呼ばれる加熱用フィラメントからの熱電子放出を利用していた。現代では、クルックス管のように電離によって陰極線を作る方式は、サイラトロンのような特殊な気体放電管でしか用いられていない。
クルックス管で開発された電子線操作技術は、後の時代の真空管、中でもフェルディナント・ブラウンが1897年に発明したブラウン管に生かされている。
- ^ “クルックス管(クルックスかん)の意味”. goo国語辞書. 2019年12月8日閲覧。
- ^ Crookes, William (December 1878). “On the illumination of lines of molecular pressure, and the trajectory of molecules”. Phil. Trans. 170: 135–164. doi:10.1098/rstl.1879.0065.
- ^ "Crookes Tube". The New International Encyclopedia. Vol. 5. Dodd, Mead & Co. 1902. p. 470. 2016年6月29日閲覧。
- ^ “Crookes tube”. The Columbia Electronic Encyclopedia, 6th Ed.. Columbia Univ. Press (2007年). 2016年6月29日閲覧。
- ^ Mosby's Dental Dictionary, 2nd ed., 2008, Elsevier, Inc. cited in "X-ray tube". The Free Dictionary. Farlex, Inc. 2008. 2016年6月29日閲覧。
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- ^ C. H. Gimingham (1876). “On a new Form of the 'Sprengel' Air-pump and Vacuum-tap”. Proceedings of the Royal Society of London 25: 396-402 2016年6月28日閲覧。.
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- ^ X線のエネルギーと透過力は管電圧とともに上昇する。電圧5000 V以下でもX線は生成するが、「硬度」が足りないため、ごくわずかなX線しかガラス壁を貫通しない。
- ^ Peters, Peter (1995年). “W. C. Roentgen and the discovery of X-rays” (Chapter 1). Textbook of Radiology. Medcyclopedia.com, GE Healthcare. 2013年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年5月5日閲覧。レントゲンは死後に研究ノートを焼き捨てさせたため、X線発見時の情況については多くの異説がある。この記述は伝記作家が作り上げたストーリーである可能性が高い。
- ^ Röntgen, Wilhelm (1896-01-23). “On a New Kind of Rays”. Nature 53 (1369): 274–276. Bibcode: 1896Natur..53R.274.. doi:10.1038/053274b0 2016年6月29日閲覧。., 1895年12月28日にWurtzberg Physical and Medical Societyに届けられた論文の英訳版。
- ^ Brona, Grzegorz. “The Cathode Rays”. Atom - The Incredible World. 2009年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年9月27日閲覧。
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- ^ E. Goldstein (1886). Berliner Sitzungsberichte 39: 391.
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- ^ “Concept review Ch.41 Electric Current through Gasses”. Learning Physics for IIT JEE (2008年). 2016年6月29日閲覧。
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