驕兵とは? わかりやすく解説

驕兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:15 UTC 版)

龐勛の乱」の記事における「驕兵」の解説

晩唐に入ると、各地将兵反乱多発するようになった。これは、各地藩鎮派遣され節度使私腹を肥やすために将兵への給与大幅に減らし将兵の不満が爆発したためであったさらには将兵自分たちにとって都合のいい新たな節度使擁立することもあった。このため節度使中には逆に将兵過剰なまでに優遇して彼らの機嫌を取る者もあった。 徐州中心に4州を管轄する武寧藩鎮は、札付き藩鎮として知られていた。これは、徐州地域交通の要所であることから優遇され穆宗期に節度副史として武寧赴任した王智興以来、勇敢の士2000人による7軍のエリート部隊置かれていたためであった。彼らは王智興以後様々な特典有し後任節度使たちも彼らのご機嫌取り終始していた。 咸通3年862年7月徐州の驕兵(驕れる兵隊)たちは新任節度使である温璋を追い出してしまう。これは温璋が厳し官吏であるという評判があり、話の分かる上司寄越せという驕兵たちの無言声明であったが、これが彼らの破滅つながってしまう。温璋の後任として選ばれたのが裘甫の乱鮮やかに鎮圧した名臣、王式だったからである。 この時、王式は裘甫の乱鎮圧直後であったため、救援来ていた忠武藩鎮義成藩鎮軍勢臨時率いていた。2藩鎮将兵慰労して解散させるとなって、王式はついでとばかりに、将兵に「徐州の驕兵どもを皆殺しにしろ」と命令下した予想しえない王式の攻撃により、武寧藩鎮壊滅した生き残りの兵たちは匪賊となり、政府1ヶ月以内自首すれば罪は問わないという布告発した

※この「驕兵」の解説は、「龐勛の乱」の解説の一部です。
「驕兵」を含む「龐勛の乱」の記事については、「龐勛の乱」の概要を参照ください。

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