ザカリー・アストリュクとは? わかりやすく解説

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ザカリー・アストリュク

(Zacharie Astruc から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 06:02 UTC 版)

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ザカリー・アストリュク
Zacharie Astruc
生誕 (1833-02-20) 1833年2月20日
フランス王国 メーヌ=エ=ロワール県アンジェ
死没 (1907-05-24) 1907年5月24日(74歳没)
フランス共和国 パリ
国籍 フランス
著名な実績 彫刻絵画

ザカリー・アストリュクZacharie Astruc, 1833年2月20日 - 1907年5月24日)は、フランス彫刻家画家詩人美術評論家

概要

アンリ・ファンタン=ラトゥール『バティニョールのアトリエ』1870年。絵筆をとるマネにモデルとして描かれているのがアストリュク[1]

1860年代、前衛的な芸術家たちのスポークスマンとして活躍した。エドゥアール・マネが、1863年落選展で『草上の昼食』を出品した際や、1865年サロン・ド・パリで『オランピア (絵画)』を出品した際、批評家や大衆からは激しい攻撃が向けられたが、新聞に美術批評を掲載していたアストリュクは、マネの擁護に努めた[2]。『オランピア』という作品の名付け親とも言われている[1]。マネをエミール・ゾラクロード・モネに紹介し、1868年のサロンでは、ピエール=オーギュスト・ルノワールの作品を評価するなど、印象派の評価にも貢献した[2]

フランスに日本美術を紹介し、ジャポニスムの隆盛に寄与した。1867年、美術批評家として初めて日本美術に関する記事を発表し、日本から届いた浮世絵着物、工芸品に愛好家たちが熱狂する様子を紹介している[3]パリ万国博覧会の後には、日本の文化と美術に対する理解を深めるために「ジャングラールの会」が結成され、アンリ・ファンタン=ラトゥール、ブラックモン、ジャックマール、イルシュなどの画家・版画家や、批評家のフィリップ・ビュルティなどとともに参加した[4]

1870年にファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』においては、マネの傍らに座って、肖像画のモデルとなっている[2][1]水彩画では、サロン・ド・パリに入選したこともあり、1874年第1回印象派展にも出品した。出品作には、『日本人形』『白い人形――日本』と題された作品が含まれていたが、現在は所在が分からない[1]

作品

脚注

  1. ^ a b c d 吉川 (2010: 11)。
  2. ^ a b c 三浦・中村 (2003: 294)。
  3. ^ ジャポニスム学会 (2000: 27)。
  4. ^ ジャポニスム学会 (2000: 35)。

参考文献




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