マネと印象派の集まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/28 22:37 UTC 版)
「カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ」の記事における「マネと印象派の集まり」の解説
マネや、エドガー・ドガなどの後の印象派を形成する若手芸術家たちは、1860年代後半から1870年代前半にかけて、パリのカフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。そこに版画家マルスラン・デブータンも参加したが、1873年半ば頃、デブータンが、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに行きつけのカフェを変えたようであり、それに伴って、皆のたまり場がここに移り変わった。 批評家のジョルジュ・リヴィエールは、次のように書いている。 ヌーヴェル・アテーヌに、我々はしばしば大勢で集まった。にこやかで優雅なマネは、とても若々しい風情で、デブータンの隣に座りにやってきては、彼と愉快な対照をなしていた。ドガは、ルイ=フィリップ・スタイルのブルジョワのような様子で、同時代人に対する辛辣な言葉を携えてやってきた。 カフェ・ゲルボワの常連だったエミール・ゾラ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、ザカリー・アストリュク、フィリップ・ビュルティ、アルマン・シルヴェストル(フランス語版)らに加えて、ジャン=ルイ・フォラン、ジャン=フランソワ・ラファエリ、アンリ・ゲラール(フランス語版)、ジャン・リシュパン(英語版)、オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン、カバネらがカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに集まった。ピエール=オーギュスト・ルノワールも顔を出した。 カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌを舞台にした作品として有名なのは、ドガの『アブサン(フランス語版)』であり、女優エレン・アンドレ(フランス語版)とデブータンがモデルとなっている。 ラファエリは、ルイ・エドモン・デュランティの紹介で、ドガ、フォラン、フェデリコ・ザンドメーネギらカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌの仲間に加わるようになったと思われる。しかし、ラファエリをはじめとするドガの仲間に印象派グループ展への参加を認めるかどうかは、印象派グループ内に対立をもたらした。ギュスターヴ・カイユボットは、カミーユ・ピサロへの手紙の中でドガの批判をする際、次のように書いている。 ドガが私たちの中に不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とはいえません。絵画制作に専念した方がよいと思われる時に、彼はカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌや社交界で熱弁を振るって時間を過ごしています。 — ギュスターヴ・カイユボット、ピサロへの手紙(1881年1月24日)
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