マンクイ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/03/23 10:50 UTC 版)
マンクイ(モンゴル語: Mangqui、生没年不詳)は、チンギス・カンの弟のカチウンの末裔で、15世紀初頭に活躍したモンゴル人諸侯の一人。
明代の漢文史料での表記は満会(mǎnhuì)・満恵(mǎnhuì)・莽晦(mǎnghuì)など。その出自については諸説あるが、少なくともチンギス・カンの諸弟を始祖とする東道諸王の末裔であることは疑いなく、近年では『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』に見えるカサル家のMangquiと同一人物と見る説が提唱されている。
概要
マンクイ王は漢文史料に断片的にその活動が記録されており、概ねボディ・アラク・ハーンやアルタン・ハーンと同時代の人間であったことが知られている。まず、16世紀半ばのモンゴル高原の諸部族を伝える『北虜考』や『九辺考』といった史料には、「岡留部は三つの営からなり、その酋長は満会(満恵)王と言った」との記述が見える[1][2]。「岡留部」はチャハルの東に位置するとされ、またハルハなどとともに紹介されることから、左翼部に属する集団であったことが確認される[3]。
次に、1520年代から1530年代にかけて行われたウリヤンハン討伐において、ボディ・アラク・ハーンが率いた諸酋の中に「葬悔王」も含まれていたことが 『訳語』に記されている[4]。『北虜考』『九辺考』の記述とあわせて、マンクイ王はボディ・アラク・ハーンの勢力と隣接し、友好的な関係にあったことが窺える[3]。また『訳語』の別の箇所では、東北にいる諸酋として「把児威・塔崩・袒希・莽晦」らの名が挙げられている[3][5]。
最後に『万暦武功録』によると、1546年(嘉靖25年)4月に「アルタンと「満会黒韃子」 が対立し、互いに攻めあった」という。またその後、「アルタンは数十万の兵を率いて満会を威嚇した」ともあり、マンクイ王は1540年代にアルタン ハーンと対立して没落したようである[1]。
出自に関する諸説
泰衛衛の首領説
日本の歴史学者和田清は、ウリヤンハイ三衛の一つ泰寧衛がモンゴル側から「往流(Ongliγud)」と呼ばれていたことに注目し、「岡留部」は泰寧衛のことであると考えた[6]。またダライスン・ゴデン・ハーンの治世にチャハルが旧泰寧衛領に移住したことを考察する中で、恐らくはチャハル諸部がマンクイ王を滅ぼすことでその故地に移住したものと推定する[7]。
泰寧衛がチャハルの東遷によって解体・併合されたことは事実であるが、その解体の過程は後続の研究者によって武力を伴わず進行したと明らかにされており、「マンクイ王=泰寧衛の首長で、その敗退を以て泰寧衛は滅亡した」という説は現在受け入れられていない。
カチウン家の末裔説
中国内モンゴルの研究者、Buyandelgerは東道諸王(チンギス・カンの諸弟を始祖とする王家の総称)についての考察を行う中で、「往流(Ongliγud)」が本来は東道諸王の総称の一つであって特定の部族を指す呼称ではないこと、しかしながら明末清初の混乱期を経て「翁牛特(オンニュート)」がカチウン家の末裔が支配する集団の名称として定着したことを指摘した[8]。
同じく内モンゴルの研究者、玉芝はBuyandelgerの議論を発展継承させ、清代の「翁牛特(オンニュート)」の起源として「カチウン家の末裔の三人兄弟にオンニュート・イスト・カラチェリク三部族がそれぞれ分封された」と伝えられることに注目し、三兄弟の父親こそがマンクイ王で、「岡留部三営」はオンニュート・イスト・カラチェリク三部族を指すものと考証した[9]。
カサル家の末裔説
上記の諸説に対し、胡日査は従来と大きく異なる見解を2020年の論文で発表した。従来の研究であまり用いられていなかったモンゴル年代記として、『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』という史料が存在するが、この史料はカサル家の末裔が著したものでカサル家の系譜について非常に詳しいという特徴を持つ[10]。『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の中には「ボルハイの子のオルダフハイの子はMangqui、Uyangqu……ら12人」との記述があり、胡日査はこのマンクイ(Mangqui)こそ漢文史料上の満会・満恵・莽晦と同一人物と指摘する[11]。
マンクイの父のオルダフハイはダヤン・ハーンに従ってダラン・テリグンの戦いなどで活躍したことで著名な人物で、その息子であればダヤン・ハーンの後継者であるボディ・アラク・ハーンと同時代人としても不自然ではない[11]。また『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の挙げるマンクイの弟たちの中には、より成立の早い『アルタン・トプチ (著者不明)』でボディ・アラク・ハーンがウリヤンハン討伐で率いていたとされるオヤンホ(Uyangqu)の名も挙がっており、『アルタン・トプチ (メルゲン・ゲゲン)』の記述が史実に基づくものであることを裏付ける[11]。また、『訳語』は東北にいる諸酋として「把児威・塔崩・袒希・莽晦」の名を列挙しているが、この内 「把児威」はバルグ(Balgh)に、「塔崩」はホルチン左翼に属するオトクのタブン(Tabun)に、それぞれ相当するものとみられる[12]。これを踏まえ、胡日査は「岡留部三営」がバルグ・タブン等によって構成されていたと論じている[13]。
脚注
参考文献
- 和田清『東亜史研究(蒙古篇)』東洋文庫、1959年。
- Buyandelger「往流・阿巴噶・阿魯蒙古 — 元代東道諸王後裔部衆的統称・万戸名・王号」『内蒙古大学学報』第4号、1998年、1-11頁。
- 胡日查「明代蒙古莽晦王及其所属“岡留三営”考辨」『内蒙古社会科学院』第3号、2020年、88-94+213頁。
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