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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 05:39 UTC 版)
これは解決不能な問題ではなかったが、制御がどの程度正確に動きに反映されたかを直接測定するために、セルシンのようなある種のフィードバックシステムを必要とした。このような大変な問題に直面し、1949年春、パーソンズはフィードバックシステムの最先端を研究しているMITサーボ機構研究所をたずねた。戦時中、この研究所はモーター駆動の複雑な装置をいくつか製作していた(B-29の機銃砲塔、SCR-584(英語版)レーダーの自動追跡システムなど)。したがってパーソンズの「数値による」自動機械の試作品を製作する下地は十分だった。 MITのチームはウィリアム・ピーズが指揮し、ジェームズ・マクドナーが補佐した。彼らは即座にパーソンズの設計を大幅に改良した。2点を指定したとき、それぞれの点を単に切削するだけでなく、2点の間を滑らかに切削するようにし、指定する点が少なくても滑らかに切り出すことができるようにしたのである。したがって直線的に切断する場合にも、連続的な点を指定することなく切断できるようになった。パーソンズ、MIT、空軍の三者で契約が結ばれ、プロジェクトは正式には1949年7月から1950年6月まで実施された。その契約は "Card-a-matic Milling Machine" の試作品とその生産システムの構築を含んでいた。どちらもパーソンズが縦通材の製造に使えるよう、最終的に引き渡されることが決まっていた。 代わりに1950年、MITは Cincinnati Milling Machine Company と空軍の間で契約を結ばせ、パーソンズをその後の開発から遠ざけた。パーソンズはこれについて後に、「MITほど立派なところが私のプロジェクトを引き継いで先に進んでくれるとは夢にも思わなかった」と述べている。開発はMITが引き継いだが、パーソンズは1952年5月5日に「工作機械の位置取りのための電動機制御装置」という特許を申請し、MITが1952年8月14日に申請した「数値制御サーボ機構」の特許と衝突した。パーソンズの特許は1958年1月14日、US Patent 2,820,187 として発効し、ベンディックス、IBM、富士通、ゼネラル・エレクトリックといった企業にライセンス供与された。
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