M60ギャング
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/28 06:23 UTC 版)
1948年、ベルファストのバリーマーフィ(英語版)地区に生まれる。彼はベルファスト旅団の隊員となり、1971年には銃器所持の罪で懲役5年を受けている。ロング・ケシュ(英語版)に収監されている間、彼は収容所副官(camp adjutant)なる役職を務めていた。1970年代末から1980年代初頭にかけて、彼はジョー・ドハーティ(英語版)やアンジェロ・フスコ(英語版)を始めとする隊員4人による活動部隊(英語版)(ASU)を編成し、彼らはM60機関銃を使用した事からM60ギャング(M60 gang)と通称された。1980年4月9日、M60ギャングはステワーツタウン通り(Stewartstown Road)にて王立アルスター警察隊(英語版)(RUC)の部隊に対する待ちぶせ攻撃を図り、RUC隊員のうちウィリアム・マギル巡査(William Magill)を殺害、その他2名を負傷させた。5月2日、M60ギャングはさらなる攻撃を計画してアントリム通り(英語版)の家屋に潜伏していたが、そこにRUCからの通報を受けたイギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)の隊員8名が到着した。SAS隊員のうち3人を乗せた車が家屋の裏手に、5人を乗せた車が正面についた。正面についた車からSAS隊員が降りるのを確認したM60ギャングは2階の窓からM60機関銃で銃撃を行い、SAS隊員の1人ハーバート・ウェストマコット(英語版)大尉は頭部と肩に被弾して即死した。ウェストマコットは北アイルランド方面にて戦死したSAS隊員のうち最高階級の将校である。正面側のSAS隊員らは所持していたコルト・コマンドー突撃銃や短機関銃、ブローニングピストルなどで応戦した。その後、マギーは脱出用のトランジット・バンの準備の為に家の裏手に出たが、待機していたSAS隊員により逮捕された。残りの3人はその後もしばらく籠城を続けたが、治安部隊に増援が到着した後に投降した。
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