KEIRINグランプリの創設
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「競輪」の記事における「KEIRINグランプリの創設」の解説
「KEIRINグランプリ」も参照 KPKが売上回復の起爆剤となりえていない実情を踏まえ、競輪関係団体は1985年(昭和60年)に5番目の特別競輪として全日本選抜競輪を新設したが、それでも満足な結果は得られなかった。そこで、通商産業省内部において、より画期的なレースを行えないかという構想が浮上し、当時の同省車輌課長だった西川禎一が、S級1班(S1)のトップクラスだけを選抜した競走を同年末に行うという案を提案した。 当初の計画では、まず東日本地区と西日本地区の各競輪場で予選競走を各1個行い、上位の9選手による決戦競走を行うというものであった。しかし年末の開催には時間的な制約があったため、当時の競輪では考えられなかった一発勝負の競走を、集客が見込める首都圏の競輪場で行うという案に収斂し、1985年12月30日に立川競輪場にてKEIRINグランプリ'85の開催を行うことを内定した。 11月に行われた競輪祭の全日程終了後に正式発表がなされた。当年の特別競輪優勝者・世界自転車選手権優勝者に競走得点上位者を加えた9名による一発勝負の競走が、優勝賞金1000万円をかけて行われることになった。 決定から当日まで期間がなかったため、全国での場外発売体制は極めて不十分だったが、立川競輪場は約4万人のファンでごった返した。また売上も立川市の希望額を上回り、KEIRINグランプリだけで約12億円を計上した。 また、1985年度の総売上対前年比も4年ぶりに増加し、1991年度まで対前年比増を続けた。しかし、売上に見合わぬ賞金体系が維持されたままとなっていたことは、その後日本競輪選手会との間に深刻な対立を発生させた。
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