KEEP計画の中心施設として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:53 UTC 版)
「清泉寮」の記事における「KEEP計画の中心施設として」の解説
念場ケ原120haに及ぶ県営開墾は1936年(昭和11年)8月13日から着手された。1942年(昭和17年)に第二次世界大戦のためポールが強制送還されるが、終戦後の1946年にはGHQ将校として再来日する。1947年に斎藤昇山梨県知事の善意により、90万坪(約300ha)がモデル農村コミュニティー用地として県有地が貸与された。翌1948年、日本の農村のモデルとなるコミュニティーづくりを目指して、「キープ協会(Kiyosato Educational Experiment Project=KEEP;清里教育実験計画)」を設立した。この際、拠点となったのが清泉寮であった。戦後日本において、清里高原のような高冷地での開拓は雑穀作りを主眼としていた。しかし、ポールは酪農こそ高冷地にふさわしいとの直観があり、農林省から50万円(当時)の融資を受け、60頭の乳牛を飼育し始めたものの良い種牛がおらず、うまくいかなかった。1953年(昭和28年)には凍霜害で畑作物は全滅に近い被害を被った。このことが農家を耕種農業から現在に至る酪農へ転換させる転機となった。
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