Ju 90改設計機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 17:21 UTC 版)
「キ90 (航空機)」の記事における「Ju 90改設計機」の解説
上記のキ90とは別に、九二式重爆撃機の後継機として陸軍が1938年(昭和13年)2月頃に計画したJu 90の爆撃機型にも、「キ90」の計画番号が仮称として与えられていた。これは日独共同で改設計したJu 90をユンカース社で生産し、日本へ空輸するという計画で、生産数は10機、日本側の改設計チームは陸軍と三菱の人員からなると予定されていた。 ユンカース社との交渉は三菱が担当し、1938年7月25日にデッサウのユンカース社工場で開始されたが、国際情勢の悪化によって輸出向け機体の開発を行う余裕がユンカース社から失われたため、同年9月9日に簡単な一般図が示されたのを最後にユンカース社からの反応が途絶え、計画は断念されている。 その後、三菱はJu 90に代わる候補としてFw 200の改設計による爆撃機化を計画した。交渉を受けたフォッケウルフ社も積極的に応じ、関心が薄かったとされる陸軍も1938年11月に宣伝のためにFw 200試作1号機が訪日したことを受け、その性能を評価して「大日本航空および満州航空用」という名目で5機のFw 200を発注した。日本側では1940年(昭和15年)、ドイツ側では1941年(昭和16年)の引渡しを予定していたが、引渡し時期の交渉中に第二次世界大戦が勃発し、陸軍が発注したFw 200は日本に辿り着くことなく終わった。 また、Fw 200に続いて、三菱は1939年(昭和14年)3月からボーイング社との間で交渉を開始しており、双方の間で遠距離爆撃機を共同設計した後にボーイング社で生産を行うことが検討されたが、日米関係の悪化により計画のみに終わった。
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