742年の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 00:24 UTC 版)
ウナール1世が起こした最大の乱は742年のものだった。737年にフランク王テウデリク4世が死去してから空位期間が続いており、さらに前年にカール・マルテルが死去したことを受けて、彼はかねてよりひそかに同盟を組んでいたバイエルン公オディロやアレマンニア公テウデバルトと呼応して独立を回復した。これに対し、カールマンとピピン3世の兄弟は兵を挙げオルレアンでロワール川を渡り、ブールジュとロシュ城に向けて進軍した。偽フレデガリウス年代記は以下のように記している。 ...ウードの息子クノアルド(ウナール)に率いられたアクィタニアのガスコン人が反乱を起こした。これをうけてカールマンとピピンの兄弟は連合軍を結成し、オルレアンでロアール川を渡った。彼らはローマ人を圧倒し、ブールジュに迫ってその近郊を焼いた。彼らは逃げるクノアルドを追い、その行く先々で略奪し荒廃させた。次に彼らはロシュ城を標的に定め、これを落として破壊し更地にし、守備兵を捕虜とした。彼らの完勝であった。そして彼らは戦利品を分け合い、住民を捕虜とし(そして)同年の秋に帰還した... 年代記中のガスコン人(バスク人)という記述は、ウナール1世と同盟していたガスコン人を指すものとされる。当時ヴァスコニア(ガスコーニュ)はアクィタニアの一部だった。アクィタニアを去る前に、カールマンとピピン3世の兄弟は旧ポワチエで会談し、2人でフランク王国を分割することと、異母兄弟グリフォを投獄することを決めた。この分割にアクィタニアは含まれておらず、結果としてアクィタニアの自治の存続を認める形となった。 742年秋にカールマンとピピン3世がアクィタニアを去ると、それまで逃げ回っていたウナール1世は同盟者のバイエルン公オディオを支援するため、ロワール川を越えて逆侵攻しシャルトルを奪った。この時、当時のシャルトル大聖堂が焼かれ灰燼に帰したという。なお、これはシャルトルの教会が大聖堂になったことを示す最古の記録でもある。ウナール1世がこのシャルトル攻略までに抵抗を受けたとする記録はない。743年初頭、カールマンとピピン3世はキルデリク3世をフランク王に衰退し、6年に及んだ空位期間を終わらせた。これはこの時点でウナール1世に対抗する手段が乏しく、王の名のもとに兄弟の権威を増すことが目的だった。
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