1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 18:39 UTC 版)
「マルコ・パンターニ」の記事における「1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-」の解説
1999年もシーズン序盤のブエルタ・ア・ムルシアで総合優勝し、5月に出場したジロ・デ・イタリアではステージ4勝という圧倒的な成績を挙げ、総合2連覇も目前だった。だが、大会最終日前日6月5日、UCI の検査とは別に、イタリアが独自で行った抜き打ちのメディカルチェックでヘマトクリット値(赤血球濃度)が、UCIの定めた50%という数値を超える52%を示し、出場停止となってしまう。同年はこの後、レースに出場することはなかった。 そして2000年のジロ・デ・イタリアで復帰。総合優勝を遂げたステファノ・ガルゼッリのアシストを積極的に努め、自分も総合28位に入り、復活をアピールした。しかしツール・ド・フランスではランス・アームストロングの前に苦戦。それでも難峰モン・ヴァントゥがゴールに設定された第11ステージでアームストロングとの一騎討ちを制して優勝するなどの見せ場を作り、ステージ2勝を挙げるが、結局途中棄権。シドニーオリンピックでも69位に沈んだ。 追い討ちをかけるように翌2001年にはドーピング疑惑が再燃。本人は一貫して薬物の使用を否定するも、UCIから2003年3月までのレース出場停止処分を受けることになった。 出場停止処分が明けた2003年のジロ・デ・イタリアでは、総合14位に入り、ツール・ド・フランスへの出場にも意欲を見せたが、突如チームメイトたちの前から姿を消す。結局この年は再びレースに参加することはなかった。
※この「1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-」の解説は、「マルコ・パンターニ」の解説の一部です。
「1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-」を含む「マルコ・パンターニ」の記事については、「マルコ・パンターニ」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-を検索
- 1999年~2003年-ドーピング疑惑禍の中で-のページへのリンク