1982年不況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 06:49 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1980-1991)」の記事における「1982年不況」の解説
1982年初期までにレーガンの経済計画は1979年に始まって続いていた不況という困難さに突き当たった。短期的にレーガノミクスの効果は赤字を急拡大させていた。政府の負債は通貨供給の締め付けと共に天井知らずの高金利となり(短期間だが20%ほどにもなった)、1982年には失業率10%の深刻な不況となった。「ラストベルト」(工業化の進んだ中西部と北東部)のある地域では、製鉄所などの工場が閉鎖され、事実上の不況状態に沈んだ。中西部などの家族経営農場の多くは高金利によって破滅し、大型の農業関連企業に身売りした。レーガンの財政政策によってインフレーションだけが即座に抑制された。レーガンの支持率は1982年不況の最悪期間に急落した。 この不況はレーガンの経済計画からはかなり以前の話である1970年代に遡り、リンドン・ジョンソン大統領の赤字予算と石油禁輸政策にその根源があった。さらにレーガン政権下のアメリカ合衆国経済の成果は、通貨主義管理の適用に固執してきていたイギリスのマーガレット・サッチャーのサッチャリズム(きつい通貨政策ときつい財政政策、これが不況下の中のデフレに繋がった)よりもかなり良いものだった。
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