1951年〜1969年
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「トロント・メープルリーフス」の記事における「1951年〜1969年」の解説
1951年にはチームは、カナディアンズと再び決勝で対戦する。対戦した5試合ともに延長戦に突入した。マックス・ベントレー(Max Bentley)は第5試合で第3ピリオド残り32秒で得点し、延長戦へ突入する。ここでレギュラーシーズンでは6ゴールしか上げていなかったディフェンスのビル・バリルコ(Bill Barilko)が決勝点を上げ、チームは4度目のスタンレー・カップ優勝を達成した。しかし、バリルコの栄光は長く続かなかった。彼はこの歴史的瞬間のわずか3ヵ月後に飛行機事故でこの世を去った(彼の乗った軽飛行機フェアチャイルド 24は、消息不明となり、1962年に発見された)。 チームはこの後1959年まで決勝進出には手が届かなかった。1959年は準決勝でブルーインズを下すも、決勝でカナディアンズに敗退する。翌1960年決勝もモントリオール対トロントのカードとなるが、カナディアンズの勝利に終わり、5年連続のカップ優勝を許した。 1962年にチームはハロルド・バラード(Harold Ballard)に買収される(1990年の死去までオーナー)が、彼はチーム強化のためにトッププレーヤーを獲得するという意志に欠けていると批判された。新首脳部は、かつてチームがカップ3年連続優勝を果したのは、フランク・マホブリッヒ(Frank Mahovlich)(後にカナダ上院議員)、当時2年目のデイブ・キーオン(Dave Keon)、ウイングのボブ・プルフォード(Bob Pulford)、そして未来のドーナツ王ティム・ホートンらのトッププレーヤーであったことには言及しなかった。 1967年のカップ決勝もモントリオール対トロント戦となる。第3試合再延長戦でボブ・プルフォード(Bob Pulford)が決勝点、第6戦ではジム・パピン(Jim Pappin)が試合を決めトロントは優勝。デイブ・キーオンがコーン・スマイス賞(プレーオフの最優秀選手賞)を獲得した。
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