鷹巣城の攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 14:28 UTC 版)
「鷹巣城 (美作国)」の記事における「鷹巣城の攻防戦」の解説
美作国に侵攻した宇喜多勢の延原景光は、天正7年(1579年)の春、海田村の鷹巣城の攻城にとりかかった。対する鷹巣城には、倉敷城主・江見市之丞と矢櫃城主・江見次郎の兄弟が入り、以下城兵300人余りが充てられた[要出典]。 宇喜多の軍勢を迎え撃つため、防衛側は城へ上る坂道に竹の皮を敷き詰め、敵兵が容易に城に攻め上れないようしたが[要出典]、宇喜多軍は懐柔した近隣の百姓たちに、竹の皮に火を放たせてから城に攻め入った。城は火に包まれ、城兵たちは善戦したがやむなく城から敵の中に打って出た。 この時、江見の重臣である清水帯刀が、宇喜多家中の池土佐守に討たれて首を取られたが、駆けつけた清水の家来広田七兵衛が逆に池土佐守に切りかかり組打った。 城将である江見兄弟は海田村卒塔婆先で討ち死にするが、城兵隊も宇喜多勢に追われながら攻防を繰り返し、海田村は激戦地となった。この戦いで城の近くに49あったと言われる大山の坊も焼き尽くされた[要出典]。 なお『日本城郭大系』では前述『東作誌』に見える天正7年(1579年)の攻城記録と同じ出来事を記載するものの、津山市刊行の『美作国の山城 改訂版』や、岡山県古代吉備文化財センター刊行の『岡山県中世城館跡総合調査報告書』では同記事を引用せず、永禄11年(1568年)頃に当時19歳の花房職秀が、「作州たかのすと申す山城」で城主「ゑミの次郎」らを討ったという『花房家記事』等に見える記事をあげており、落城時の記録について相違が見られる。
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