高尾の渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 01:19 UTC 版)
高尾橋が開通する以前は「高尾の渡し」と呼ばれる、高尾村と高尾新田村を結ぶ渡船二艘を有する私設の渡船であった。渡船はいつから開設されていたか定かではないが、1685年(貞享2年)の史料に「高尾渡し」と記されていたことからその頃までには存在したとされる。渡船賃(通行料)は1876年(明治9年)6月の時点では徒歩2厘5毛、荷馬は6厘であった。また、渡船場には河岸場が併設され、1690年(元禄3年)に開設された、荒川筋に4つある江戸幕府公認で、幕府廻米運賃制定の河岸場である高尾河岸が現在の高尾橋の約100メートル川下の場所に位置し、江戸への物資輸送の拠点として機能していた。北本で最も栄えていた場所の一つで、河岸場周辺には町が形成され、塩も仕事も高尾に行けば何でもそろい、そこに無いものはないと言われたほどで、1883年(明治16年)に日本鉄道(現在の高崎線)が開通するまでは大変な賑わいだったという。「高尾のタンス」と呼ばれた地場産業である桐箪笥作りも盛んで、東京箪笥の元祖として江戸時代からその名が知られていた。この箪笥作りは1940年(昭和15年)に物品税の導入などにより衰退した。なお、高尾河岸は大正の初頭頃に終焉した。現在は阿弥陀堂のみが当時の面影を留めるほかは農家が数軒あるのみである。また、渡船場につながる道も残っている。
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