騒動発生時の石徹白
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
石徹白は12名の頭社人の合議を中心とする村運営が行われてきたが、中でも神主は白山中居神社神職の筆頭であり、また村役人に相当する役割も担い、石徹白の頂点に位置していた。頭社人は世襲制であったが、神主はかつて頭社人の中から1年輪番で勤める形を取っていた。15世紀には神主の家系の固定化が始まり、16世紀の朝倉氏の介入によって世襲化が固まったようであるが、神主の地位はあくまで12名の頭社人の筆頭であり、石徹白での権威や権力を完全に掌握しているわけではなかった。事実、16世紀末に神主石徹白彦右衛門が亡くなった後、孫に神主職を継がせようと考え、北ノ庄藩からも安堵状が出されたのにもかかわらず、石徹白側がそれを受けずに石徹白五郎右衛門が神主となった。また石徹白騒動の当事者である石徹白豊前の父、石徹白大和についても、白山中居神社の造営修復用材を伐る造営山をひそかに伐採して売り払うという問題を起こした際、神主の座からの追放について論議された。 もっとも石徹白大和は問題を起こした後も郡上藩の要望もあって神主を継続しており、朝倉氏、郡上藩とも領主として、石徹白が世襲神主による支配を受ける形が望ましいと見なしていたと考えられ、白山中居神社の造営山を勝手に伐採した件が問題になったことは、世襲化した神主が石徹白における絶対的な権威や権力の掌握を目指す動きが見られたことを示唆する。一方、神主以外の頭社人や他の社人らの多くは、これまで通りの12名の頭社人の合議を中心とする村運営の継続と、絶対的な権威、権力を握る神主ではなく、頭社人の筆頭というこれまでの形の継続を望んでいた。
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